第34話 目隠しの一時間
土曜の第四は朝から晴れていた。
開場の前に、金曜のぶんの二番を済ませた。
水曜と同じ声だった。
今日の見学の枠は、全部この検証に振り替えられていた。
見学通路の柵の前に長机が二つ。
その向こうに椅子が六十脚並んで、立ち見の人が椅子の数と同じくらいいた。
予約の枠を取れなかった人のために、通路の反対側に立ち見の区画が作られていた。
案内の職員が朝から三人出ていて、そのうちの一人は先週まで日中の点検を回っていた人だった。
配信用の機材が三台。
そのうちの一台は、ルカさんのところのものだった。
彼女は、現場では一言も俺に話しかけなかった。
仕事の顔をしている人に話しかけるのは、失礼だ。
俺も黙っていた。
長机の端に、封をした箱。
箱を持ってきたのは、いつか手帳を出した国の人だった。
「順番はこの中にあります」
その人は、箱の封に自分の判子を押してから、公社の所長にも押させた。
「開けるのは終わってからです。私は結果に関心がありません。手続きが守られたかどうかにだけ関心があります」
会場のどこかで笑い声が起きた。
笑われた本人は表情を変えなかった。
手続きを守ることにだけ関心があると言い切れる人を、俺はこの仕事で何人か見てきた。
そういう人はたいてい、誰からも好かれないまま正しい。
火村が入口の脇に立っているのが見えた。
腕を組んで壁にもたれているだけなのに、その一角だけ人の密度が違った。
秋津さんが、様式第一号の束を抱えて長机についた。
「灰田さん、手が震えてます」
「持っててください」
俺は目隠しを渡した。
九時五十八分に自分で目隠しを結んで、二分待ってから始まった。
◇
最初の音は柵の向こうから来た。
第四の二番だ。
「下がり幅、なし」
言ってから訂正した。
「すみません。下がり幅の欄は、あります。基準からの下がりはありますが、先週から動いていません」
『下がり幅あり、ただし進行なし、だそうです!』
秋津さんが書きながら復唱した。
声が思ったより通っていた。
「濁り、あり。速さの欄は、空欄です」
『濁りあり、速さは空欄、だそうです!』
会場がざわついた。
空欄という答えが答えになることを、たぶん誰も予想していなかった。
二問目は長机の上。
金属を軽く叩く音が、二度続く。
「柵の金具です。留め具が一つ緩んでいます。左から数えて、二つ目です」
出題の職員が黙って金具を裏返す音がした。
会場から声にならない音が上がった。
三問目は回転する音。
軸受のたぐいだと分かったが、それ以上が出てこない。
「内側が荒れています。ただ、これは俺の担当した機械ではないので、荒れの程度は書けません」
書けませんという言葉を秋津さんが復唱するたびに、会場が少しずつ静かになっていった。
当てるところではなく、当てないところで静かになる会場だった。
四問目から七問目までを続けて聴いた。
配管が三本と、柱の音が一本。
目隠しをしていると、時間の見当がつかない。
秋津さんのペンの音と、書き終わって顔を上げる気配だけが区切りになった。
七問目の柱の音は、柵の向こうからではなく、スピーカーから来た。
「第七の、四番です。下がり幅は書けます。濁りの欄は、書けません」
『第七の四番、下がり幅のみ。濁りは書けない、だそうです!』
「中継の音なので。濁りの入っている側は、線の途中で落ちます」
毎晩聴いている柱でも、線を一本挟むと、書ける欄が減る。
出題の紙を確かめる音が、長机の向こうで長かった。
◇
八問目の前に質疑の時間が入った。
前のほうに座っていた男の人が手を挙げた。
「工学部で音響をやっている者です。失礼ですが、さっきの中継で落ちたのは、人の耳の側の話では。機械で解析するなら、録音で済む話ではないですか」
会場の音が、一度引いた。
待っていた質問だ。
「やってみましょう」
俺は目隠しをしたまま言った。
「さっきの金具を、この会場で録音してもらえますか。それをすぐに再生して、同じ質問をしてください」
準備に五分ほどかかった。
その五分のあいだ、誰も帰らなかった。
◇
――同じころ。各務ルカの配信画面より
『準備にもう三分ほどかかります。そのまま待っていてください』
同時接続、十万超えた
平日のゲーム配信より多いんだが
うちの部署、全員で見てます
工場の休憩室からも見てる
この五分がいちばん緊張する
なんで無音なのにこんなに見てられるんだ
目隠しの人、さっきから微動だにしない
『十万人います』
『……本人には、言わないでおきます』
◇
目隠しの内側では、会場の音だけが情報になる。
百二十人ぶんの衣擦れと呼吸は、待っているときと退屈しているときとで鳴り方が違う。
それを、この日はじめて知った。
再生された音は、最初の一秒で違うものになる。
「これは、金具です」
そこまでは分かった。
「留め具が緩んでいるかどうかは、書けません」
『書けません、だそうです』
秋津さんの声から感嘆符が消えていた。
「なぜでしょうか」
質問した人の声が近くなった。
前に出てきたらしい。
「層が落ちてます」
説明の言葉を探したが、これ以上の言い方が見つからなかった。
「この音は、半分死んでます。高いほうの細かいところが、録るときに捨てられています。捨てられた側に、緩みは入っています」
「あと二つ、お願いします」
軸受と配管を、続けて録音で聴いた。
どちらも、たぐいまでは言えた。
どちらも、その先の欄で止まった。
長机のほうで紙をめくる音がした。
国の人が立って、手帳を開いて読み上げた。
「補足します。結界柱の監視盤が記録しているのは振幅と出力と温度です。周波数は記録項目にありません。三十年前の設計のままです」
会場が静まる。
「測ればいいという話には、測る仕組みが要ります。いまの国内に、その仕組みはありません」
椅子の背にもたれる音が、あちこちで鳴った。
八問目からは、誰も途中で話しかけてこなくなった。
◇
十問目の途中で、遠くの音が変わる。
浅層側の順路のほうだ。
床を伝ってくる細かい音が、一か所へ寄り始めている。
答えの途中で口を止めた。
「すみません。少し待ちます」
会場が何も分からないまま静かになった。
入口の脇で壁がこすれる音がして、それから足音が遠ざかった。
配信の画面には、順路の奥へ入っていく火村の背中が映っていたらしい。
二十秒ほどで、床の音が元に戻る。
戻ってきた足音は、行くときと同じ速さ。
俺は目隠しをしたまま言った。
「今の、二匹ですね」
会場が沸いた。
沸いてから、笑い声になる。
火村が何か言い返したようだったが、拍手にかき消されて聞こえなかった。
秋津さんが小さい声で教えてくれた。
「二匹でした。火村さんが、数えるなって言ってます」
張り詰めていた空気が、そこで一度ゆるんだ。
ゆるんでから、また戻る。
戻った空気は、来たときよりも静かだ。
◇
十二問目の前に休憩が入って、水を一口だけ飲んだ。
「灰田さん、いま十一時二分です」
秋津さんが小さい声で教えてくれた。
段取りでは十一時に終わる予定だった。
二分の遅れは、質疑のぶんだ。
目隠しを外していいと言われたが、外さない。
一度外すと耳のほうが油断する気がした。
目隠しの内側が湿っていた。
耳のほうは、まだ動く。
動くうちに終わらせたかった。
最後の部材が長机に置かれる音がした。
置いたあと、その手がすぐには離れなかった。
金属が机の上で、ごく小さく鳴り続けている。
一定ではない。
細かく途切れる鳴り方だ。
出題の職員の手が震えていた。
今日ずっと部材を扱ってきた人だ。
俺の耳が正しいかどうかを、この一時間、誰よりも近くで確かめてきた人でもある。
その人の手が、最後の一問で震えている。
緊張しているのは、たぶん、俺ではない。
「大丈夫です」
俺は言った。
「置いてもらえれば、あとはこちらでやります」
金属の音が止まる。
手が離れた。
十二問目が、静かに鳴り始めた。
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