第32話 責任の在り処
月曜の朝、保全室に公社の法務の人が来た。
三十代の、疲れた顔の男の人だった。
本部から歩いてきたらしく、上着を腕にかけて、額に汗をかいていた。
秋津さんが出した麦茶を、一息で半分飲んだ。
机の上に、印刷した紙の束を置いた。
「灰田さんの、これまでの公の発言を全部拾いました」
崩落の夜の受け答え。
検証スレに転載された分。
配信で引用された分。
各務ルカさんが番組で使った「浅層は、逃げられる場所です」。
紙の束は、思っていたより厚かった。
自分がこんなに喋っていたことを、俺は知らなかった。
「結論から申し上げます」
法務の人は、紙を一枚ずつ指で叩いた。
「発言は、すべて正確です。事実と違うことは一つも言っていません。訂正の必要はありません」
「はい」
「誇張も、断定のしすぎも、ありません。むしろ、慎重すぎるくらいです」
「はい」
「ですので、公社としては、法的な責任は生じないと考えています。以上が、私の仕事です」
言い方は事務的だったが、悪い人ではなかった。
この人は、俺を守るために日曜を潰して紙を拾ったのだと思う。
「ありがとうございます」
礼を言ってから、聞いた。
「あの三人に、俺の言葉は、どういう形で届いていたんでしょうか」
法務の人は、少し黙った。
「……それは、私の仕事の外です」
正直な人だ、と思った。
正直な人が、正直に、その先は分からないと言った。
紙の束は、置いていってくれた。
帰り際、入口のところで一度立ち止まって、こちらを見た。
何か言おうとして、やめて、頭を下げて出ていった。
言わなかったほうが、この人の仕事には正しいのだと思う。
◇
――同じ日。報道と匿名掲示板
夕方の番組が、専門家を呼んで十分の枠を取った。
『発言が正確であることと、その発言が事故の一因になり得ることは、両立します』
『では、正確な言葉に、どこまで責任を求めるべきなのか』
悪いのは入った奴らだろ
自己責任帯って書いてある
でも入らせた空気は誰が作った
空気に責任取らせる法律はないんだよ
じゃあ誰も悪くないってこと?
誰も悪くないと、次も起きるが
結局それが困るんだよな
どの言葉も、半分ずつ正しかった。
正しい半分だけが、集まって回っていた。
◇
「灰田さん、あの人たち、耳が悪かったんですか」
秋津さんが、ノートを開いたまま聞いた。
責める調子ではなかった。
分からないから聞いている、という顔だった。
「いえ」
「音は、正しかったんです」
二番柱は、あの日も普通に鳴っていた。
彼らが聴いたものは、俺が金曜の夜に聴いたものと、たぶん同じだった。
「正常な柱の区画でも、線は別の理由で引かれます」
「……別の理由」
「東回りの規制は、湧きの数で引いた線です。柱の音とは、根拠が違います」
秋津さんは、それをノートに書いて、書いた文字を長いこと見ていた。
ボールペンの尻で、こめかみを二度叩いた。
翻訳のできない言葉に当たったときの、この人の癖だった。
「音は正しい。線は別」
それから、困った顔で顔を上げた。
「これ、どこに書く欄もないですね」
様式第一号には、下がり幅と、濁りと、速さの欄しかない。
線の欄は、ない。
俺は、決定書に自分の名前が入っていた夜に考えたことを、思い出していた。
引いた線は、引いた人間より偉くなる。
俺の耳が引いた線が、俺の手を離れて、人を動かした。
今度は、耳ですらなかった。
俺の言葉が、俺の知らないところで、線を引いていた。
◇
火曜の午後、保全室の入口に、大きな影が立った。
肩の広い若い男だった。
日曜に、担架の端を持っていた人だった。
左の手首に、包帯が巻いてあった。
「あの」
そこで一度、言葉が止まった。
「日曜の、東回りに入った者です」
俺は椅子から立った。
秋津さんが、無言で二つ目の椅子を出して、部屋を出ていった。
出ていく前に、麦茶を置いていった。
「お連れの方は」
「手術、終わりました。腕は、時間かかるけど、動くって」
「そうですか」
若い男は、それから、床を見て言った。
「謝りに来たんですけど、その前に、一個だけ言っていいですか」
「はい」
「音、ほんとに普通だったんです」
顔を上げた目が、赤かった。
「俺、数とか記録とか、全然駄目で。報告書もいつも突き返されるし、装備の管理表も書けなくて。……でも、音だけは、聴こえた気がして」
「はい」
「聴こえた気がして、それで、行けると思ったんです。俺が言ったんです、大丈夫だって。俺が」
言葉が、そこで詰まった。
俺は、事実を順番に言った。
「あなたの耳は、間違っていません」
若い男が、顔を上げた。
「二番柱の音は、あの日、普通でした。あなたが聴いたとおりです」
「じゃあ、なんで」
「間違っていたのは、耳だけで線を越えられると思わせた、世の中の側の言葉です」
一度、息を継いだ。
「俺の言葉です」
若い男は、しばらく黙っていた。
包帯の手が、ズボンの横で、二度ほど握られて、開いた。
それから、腰から折るように、深く頭を下げた。
「……耳が間違ってないって、言われたの、初めてです」
「はい」
「ずっと、勘でやってるって言われてきたんで」
顔を上げたときには、もう泣いていなかった。
名前は、名乗らなかった。
俺も、聞かなかった。
聞けば、この人は次に来にくくなる気がした。
出ていく背中は、入ってきたときより、少しだけ大きく見えた。
廊下の角を曲がるまで、見ていた。
麦茶は、半分だけ減っていた。
◇
机に戻って、手帳を出した。
日曜のページを開いた。
日付だけが書いてあって、あとは白いままだった。
いつもの順で、書いた。
下がり幅、変わらず。
濁り、あり。
進み、月単位のまま。
そこで手を止めて、下に一行、足した。
『同じ日、同じ柱を、もう一人が聴いている。「普通だった」——本人から聞いた』
推測ではない。
聞いたことを、聞いたと書いた。
二日遅れで、そのページが埋まった。
指は、普通に動いた。
顔を上げると、所長が保全室の入口に立っていた。
息が上がっていた。
「灰田君。公社の窓口が、朝から鳴りっぱなしだ」
「取材ですか」
「取材と、あとは——検証をやれ、という申し入れだ。本当に聴こえるのかを、人前で確かめろと。数え切れん量が来ている」
「数えてください」
「……は?」
「あとで要ると思います」
所長は、口を半分開けたまま、手帳を出してメモを取り始めた。
俺は立ち上がって、上着を取った。
「受けます」
言ってから、言い直した。
「いえ。やらせてください」
所長が、顔を上げた。
「俺の言葉の尻拭いは、俺の仕事です」
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