第31話 素人点検、事故る
日曜の第四で、俺は整理券を配っていた。
「保全室長に何をさせてるんだと、上から怒られますよ」
大久保さんが、券の束を半分持っていった。
「人が足りないと聞いたので」
「聞いたからって、来る人はいませんよ、普通」
入替制の二回目は、十二時からだった。
列の後ろのほうで、若い人が二人、耳のうしろに手を当てる形を練習していた。
前のほうには、折りたたみの椅子を持ってきている年配の人がいて、係の人に、椅子は出さないでくださいと丁寧に断られていた。
断られた人は、素直に椅子をたたんだ。
柵の前の三十人が入れ替わるのに、案内が二人要る。
その二人は、本来なら日中の点検を回っている人たちだった。
券を配り終えて、俺は東回りの通路へ歩いた。
大久保さんが一人で回るはずだった半分を、引き受けることにしていた。
継手の締まりを見て、照明の玉切れを一つ手帳に書いた。
排水の溝に落ちていた見学のパンフレットを拾って、丸めて、上着のポケットに入れた。
日曜の点検は、だいたいこういう仕事だった。
規制の柵と、掲示。
『東回り区画 規制中 立入は資格者の自己責任帯』
紙は、日に焼けて少し白くなっていた。
規制がかかった日に貼られてから、ひと月以上、そこにある。
通気口の前で、足が止まった。
金曜の夜と、音が違った。
金曜は静かだった。
今は、静かではない。
高いところで、こまかい音が、ばらばらに立っている。
数が増えたときの音ではなかった。
散っていたものが、一か所へ寄っていくときの音だった。
魔物は柱の悲鳴の翻訳だと、俺は前に言ったことがある。
これは、その翻訳ではない。
湧きのほうが、何かに向かって騒いでいる音だ。
腕時計を見た。
十二時三十三分。
「大久保さん」
無線を持つ手より先に、声のほうが出ていた。
「東回りに、人が入っていませんか」
◇
入退場の端末は、第四では生きている。
規制帯の通過記録も、資格者の自己責任帯だから、通った時間だけは残る。
大久保さんが端末を叩いて、画面を俺に向けた。
十二時十八分。
三人。
九時十二分に入場した、同じ三人だった。
「三人です」
言ってから、自分が数えていることに気づいた。
「所長に」
「もう走ってます」
場内放送が入ったのが、十二時三十五分。
『東回り区画に立ち入られている方は、直ちに引き返してください』
同じ文面が、二度、三度と流れた。
放送は浅層の奥までは届かない。
届かないことは、この建物の人間が全員知っている。
それでも流すのは、届く範囲の人を止めるためだ。
無線に、女の人の声が入った。
『第四常駐の戸倉です。装備あり。今から入ります』
応急のあとから第四に張り付いていた、S級の四人のうちの一人だった。
第九の突貫が終わった頃に契約は切れているのに、日曜の昼に、この人はここにいた。
「灰田です。東回りは、二番の受け持ちの区画です」
俺は、頭の中の図面を読み上げた。
「順路の分岐から三つ目の角を左。そこから先は、通気の縦坑に沿って一本道です。縦坑の位置は、天井の丸い蓋で分かります。音が寄っているのは、その一本道の、いちばん奥の広間です」
『助かる』
『何匹だ』
「分かりません。数は、音では分かりません」
『分かった』
無線が切れた。
十二時四十一分。
俺は、通気口の前に立っていた。
それから先、俺にできることは、一つもなかった。
無線を握って、聴いていた。
通気口の格子は、日曜の昼の熱を持っていた。
手のひらに、その熱が移った。
こまかい音が、束になって、一度だけ大きくなった。
それから、金属を打つ音が三度。
戸倉さんの息の音。
誰かの、短い悲鳴。
悲鳴は、若い男の声だった。
上履きを抱えた母親も、名前をなぞる若い男も、今日はここにいない。
俺の隣には、誰も待っていなかった。
待つ人がいない待ち時間は、六時間よりも長かった。
◇
『——確保。三人、意識あり。一人、重い』
十二時五十二分だった。
地上に上がってきたのは、十三時十分。
先頭は戸倉さんで、そのうしろから、大柄な若い男が、担架の端を持っていた。
担架の上の男は、右の腕から胸にかけて、応急の布が巻かれていた。
目は開いていた。
開いた目が、天井の照明を追っていた。
三人目の女の子は、自分の足で歩いていたが、膝から下が震えていた。
案内の人が、三回目の列を止めて、通路の端に寄せていた。
止められた人たちは、何も聞かずに端に寄って、担架が通るまで黙っていた。
撮らなかった人もいたし、撮った人もいた。
救急車を待つあいだ、大柄な男が、担架のそばに膝をついていた。
何か言っていたが、言葉にはなっていなかった。
「なんで入ったんだ」
大久保さんが、誰にともなく言った。
戸倉さんが、装備を外しながら、短く答えた。
「音が、普通だったから、だそうです」
大久保さんが、俺のほうを見た。
俺も、大久保さんを見た。
二番柱の音は、金曜の夜も、今朝も、普通だった。
彼らは、間違ったことを聴いていない。
規制の線は、音で引いた線ではなかった。
その二つが、俺の頭の中で並んだまま、言葉にならなかった。
救急車が二台、続けて出ていった。
柵の前では、三回目の入替の列が、案内の人に誘導されて動いていた。
音を聴きに来た人たちは、何が起きたのかを知らずに、目を閉じていた。
二番柱は、いつもの高さで鳴っていた。
その音は、今日、何も間違えていない。
◇
――同日夕方。動画投稿サイトおよび報道
現場に居合わせた見学客の配信が、そのまま切り抜かれて回った。
救急車の映像と、震えている女の子の後ろ姿が、繰り返し流れた。
自己責任帯って書いてあるじゃん
でも入る気持ちは分かる
分かるな
音が普通だったって言ってるらしい
じゃあ規制のほうが間違ってたのでは
柱と魔物は別の話だろ
誰かちゃんと説明してくれ
夕方のニュースは、事実だけを短く読んだ。
そのあとで、一行だけ、問いの形の言葉が付いた。
『彼らは、音は普通だった、と話しているといいます』
『音を聴けば分かる。——そう言ったのは、誰だったのでしょうか』
◇
病院に着いたのは、面会の時間が終わったあとだった。
会うつもりで行ったわけではなかった。
名前も、まだ知らなかった。
入場記録の三人が、名前のある三人になったのは、今日の夕方の報せの中でだった。
三人が生きていることは、もう聞いていた。
それでも、行くところが、ほかに思いつかなかった。
夜間の出入口だけが明るくて、そこに小さい虫が集まっていた。
救急車が一台、サイレンを鳴らさずに入ってきて、静かに停まった。
自動販売機の明かりの届かないところに、立った。
上着の内側から、手帳を出した。
いつもの順で、書こうとした。
日付は、書けた。
そのあとが、出てこなかった。
下がり幅、変わらず。
濁り、あり。
進み、月単位のまま。
今日の二番柱は、それで全部だった。
何も変わっていない。
変わっていないことを書けばいいだけだった。
指が、動かなかった。
十年、俺はこれを毎日書いてきた。
書けない日は、一日もなかった。
あの晩、手帳に何も書けなかった夜のことを、俺は今でも、上手には話せない。
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