第30話 真似しないでください
金曜の夜も、大久保さんは通用口の内側で待っていた。
「二度目ですね」
「約束したので」
「三度目からは、来ない人が多いんですよ」
閉店後の通路は、水曜と同じ静けさだった。
違っていたのは、床に黄色いテープで誘導の線が引かれていたことと、柱へ向かう途中の掲示板に、紙が一枚増えていたことだった。
テープは、見学通路の入口から柵の手前まで、行ったり来たりを三度させる形に貼られていた。
『見学通路のご案内 混雑時は入替制とさせていただきます』
刷ったばかりの紙で、角がまだ折れていなかった。
「今日、昼間の柵の前が、えらいことになってましてね」
大久保さんが、紙を指で軽く叩いた。
「見学の人数、先月の同じ金曜の、三倍だそうです」
「三倍」
「土日は予約で埋まって、当日の窓口は朝で締めました。断られた人が、しばらく入口に立ってました」
「何を、しに」
「音を聴きに来るんだそうですよ」
大久保さんは、それから、少し困った顔をした。
「うちの若いのが、二人、案内に取られてましてね。今日の日中の点検は、俺が一人で回りました」
「すみません」
「あんたが謝るとこじゃないでしょう」
八百円で、柵まで行ける。
十年、その八百円を払う人がまばらだったことを、俺は知っていた。
二番柱の基部で、目を閉じた。
手帳に書くことは、また一行で足りた。
昼間あれだけ人が来た柱は、夜には、いつもの声で鳴っていた。
「においも、変わらんです」
大久保さんが、鼻から息を一つ吸って言った。
「機械は正直でいいですね。人が増えても、態度を変えん」
帰り道、閉じたシャッターの前で、大久保さんが柵のほうへ顎をしゃくった。
「あの柵、届かん距離に作ってあるんでしたね」
「はい。手は届きません。目と耳だけです」
「なら、まあ、いくら来ても」
「はい」
柵の外で音を聴く人が増えることに、止める理由を思いつかなかった。
聴くのは、危ないことではない。
十年、俺はそう思って聴いてきた。
◇
――土曜の夜。各務ルカの配信より
『こんばんは。今日は、いつもの企画はお休みです』
『先に、これ見てください。今日の昼、第四ダンジョンの見学通路です』
画面に、行列が映った。
柵の前に、三十人ばかりが並んでいた。
半分ほどが、目を閉じていた。
え、なにこれ
全員おじさんごっこしてるw
微笑ましい
俺も来週行く予定
入場料800円は安い
柵の前で瞑想会
これ迷惑になってない?
『……なってます。入替制の紙、今日から貼られてました』
『それで、今日は、お願いをしに来ました』
『真似しないでください』
は?
配信者が言うことか
自分は取材してるくせに
え、なんで
『おじさんのは、十年かかってるやつです』
『毎日聴いて、十年です。私、去年から何回か柵の前に立ってますけど、いまだに何も聴こえません』
『音の高さが変わってるとか、濁ってるとか、一個も分かりません』
プロでも無理なんだ
じゃあ俺らは聴いちゃ駄目なの
見学は自由でしょ
金払ってるんだが
『見学は自由です。柵の外なら、いくらでも聴いてください』
『私が言ってるのは、聴こえた気がしたからって、線の内側に入らないでください、ってことです』
線?
浅層は逃げられる場所なんでしょ?
『……それ』
『それ、私が配信で広めた言葉です』
『広めた本人が言いますけど、あれ、安全ですって意味じゃないです』
『逃げられる場所だから、逃げる前提で行くところです』
難しくない?
結局どこまでならいいの
線引いてくれ
『柵の外まで。それだけです』
『素人には無理です。私も無理でした』
『……すみません。強く言いました。でも、今日はこれだけ言いに来ました』
◇
その夜、北公園から帰る途中で、電話が鳴った。
『おじさん、配信、見ました?』
「見てないです。すみません」
『見なくていいです。……あの』
ルカさんは、しばらく黙っていた。
夜の道の音が、受話器の向こうにもあった。
彼女も、どこかを歩いているらしかった。
『私、何を間違えました?』
「何を言ったのか、教えてもらえますか」
『……真似しないでください、って。おじさんのは十年かかってるやつだから、素人には無理です、って。私も、去年から柵の前に立ってますけど、何も聴こえませんって』
「間違えてないです」
『でも、なんか、増えてるんです。伸び方が、変なんです』
受話器の向こうで、自動ドアの開く音がした。
開いた音だけして、彼女は入らなかったらしい。
いま聞いた中身は、事実だった。
十年かかっている。
柵の外なら安全で、内側は違う。
去年から立って何も聴こえないというのも、本人が言うのだから、そのとおりだ。
「間違えてないです」
もう一度言ってから、続きが出てこなくなった。
じゃあ何が起きているのか、という続きだった。
「……ただ」
言葉を探して、探したものが見つからなかった。
「俺も、何が正しかったのかは、まだ分かってないです」
『……おじさんでも、分からないことあるんですね』
「たくさんあります」
『少し安心しました』
安心されるようなことを言った覚えはなかったが、彼女の声は、電話に出たときより軽かった。
『明日、第四、また混むと思います』
「そうですか」
『何かあったら、すぐ連絡します』
「はい」
電話を切って、家まで歩いた。
分からないことを分からないと言った夜は、いつもより、歩くのが遅くなった。
◇
――日付が変わる頃。動画投稿サイト
【煽り】プロが「素人には無理」と断言w【画面端のおじさん】
一分二十秒の動画だった。
現地の映像も、十年の話も、柵の外までの説明も、入っていなかった。
言い方w
やってみないと分からんだろ
選ばれし者だけが聴ける設定なの?
元配信ちゃんと見てから言え
見た。普通に親切だった
無理って言われると、逆にやりたくなるよな
それな
元の配信は、十二万回だった。
一分二十秒のほうが、朝までに、それを追い抜いた。
◇
――日曜の朝。第四ダンジョン、入場ゲート
開場の十分前から、予約票を手にした人たちが、見学通路の入口に並んでいた。
小学生くらいの子供を連れた父親が、順番を待つあいだに、耳のうしろに手を当てて見せていた。
子供が真似をして、二人で笑っていた。
その列とは別に、探索者用のゲートに、三人組が並んだ。
男が二人と、女が一人。
探索者証は、三人ともD級だった。
腰の装備は、どれも真新しかった。
留め具の樹脂が、まだ白く光っていた。
「東回りの区画は、規制中です。掲示のとおり、立入は資格者の自己責任帯になります」
係員の案内に、三人は、はい、と揃った返事をした。
返事のいい人たちだった。
入場記録に、三人の名前と、九時十二分が残った。
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