第3話 不審者
八百円。
券売機のボタンを押す音にも、そろそろ慣れてきた。
六日目の朝だ。
第三柱の音が下がり始めてから、六日目。
開場と同時に見学通路へ入り、一番奥まで歩く。
すれ違うのは、平日の朝から見学に来る、暇そうな人ばかりだ。
つまり、俺と同類である。
駅前のパン屋で一番安いパンを買って、開場の列に並ぶ。
昨日までの夕方通いに、今日から朝が加わった。
無職の朝は、勤め人の朝より規則正しい。
やることが、一つしかないからだ。
柵に手をかけて、耳を澄ます。
唸りは、昨日の夕方より、さらに低い。
朝一番の音が、前日の夕方を下回っている。
夜のあいだも、休まずに落ち続けた、ということだ。
進みが、止まらない。
普通の劣化なら、一日ごとの変化は、耳を疑うほど小さい。
四十一日かけて、ゆっくり落ちていくものだ。
この柱は、毎日はっきり分かるだけ、落ちている。
手帳に、日付と、下がり幅を書きつける。
点検員の癖だ。
提出する先は、もう、ないのだけれど。
それでも書くのは、書かないと、耳が昨日を忘れるからだ。
記録は、俺の外側に置いてある記憶だ。
「……なんでだ」
原因の候補を、頭の中で一つずつ潰していく。
地下水位の変動なら、排水路の水音が変わる。
見学通路の脇を流れる水音は、先週から平常のままだ。
近隣で杭でも打っていれば、進み方が昼と夜で変わる。
変わっていない。
魔素圧そのものの急変なら、九本全部が一緒に下がる。
一昨日の夜、川沿いの換気塔で確かめた。
地上の換気塔には、ダクトを伝って、中の柱の音がかすかに届く。
残りの八本は、いつもの音で鳴っていた。
下がっているのは、第三柱、一本だけ。
外の理由を全部消すと、柱そのものの理由しか残らない。
でも、十年でこんな進み方は一度も聴いていないし、南雲さんの古い記録にも、たしか、こんな例は——
「あーっ」
後ろで、声がした。
振り向くと、金具を直した、あの配信の子が立っていた。
肩に小型の撮影機、腰には、俺が直した金具。
「金具の人だ!」
「どうも」
「昨日もいましたよね? 夕方!」
「いました」
彼女の撮影機に、赤いランプが灯っている。
配信中、ということだろう。
俺は軽く会釈して、柱に向き直った。
音を聴く時間は、長いほどいい。
背中で、彼女が視聴者に何かを言っているのが聞こえた。
気にしないことにして、唸りに意識を沈める。
基音、倍音、揺れ。
昨日の音を頭の中で隣に並べて、差分を取る。
下がり幅、およそ四分の一音。
手帳の数列が、また一つ伸びる。
◇
――『各務ルカのダンジョン日記』配信画面より
浅層見学通路。
画面の中央では、配信主が今日の探索予定を話している。
その画面の端に、柱に耳を押し当てる作業着の男が、ずっと映り込んでいる。
金具の人また来てるw
昨日の夕方もいたよなこの人
柱に耳つけてて草
なにが聞こえるんですかね
怪談はやめろ
常連さんでしょ
柱のファンっているんだ
柱推しは草
「ちょっと、コメント欄! あの人のこと笑わないの!」
配信主が振り向いて、少しだけ声を落とす。
「あの人はね、前に私の命綱の金具、音で直してくれたんだから。新品にしか見えないやつ。手に取って振って、中のバネがへたってるの当てたの」
音でw
整備士さんか?
振って当てたは盛りすぎだろ
いやこないだの配信で金具の話してたのはガチ
言ってたな確かに
で、なんで柱に耳つけてるんです?
それは説明できてないんよ
画面端のおじさん
「画面端のおじさんって何! ……いや、たしかに画面の端にいるけど」
画面端のおじさん、定着待ったなし
ここ入場料八百円だぞ
毎回払ってんのかあれ
朝も夕方もいるらしいぞ
一日千六百円
皆勤賞やん
無料開放日じゃないんだよなあ
働いてないのかな
「余計なお世話! ……探索、行くよ!」
画面が通路の先へ進んでいく。
端に映っていた男は、最後まで柱から耳を離さなかった。
◇
夕方、もう一度来た。
八百円。
券売機は、朝と同じ音でチケットを吐き出す。
通路の奥で、柵に手をかける。
夕方の唸りは、朝よりも、また低い。
半日で、これだけ動くのか。
柵を握る手に、力が入った。
数字にしよう、と思った。
朝の音と、夕方の音。
下がり幅を半日刻みで手帳に並べていけば、着地点の見当がつく。
着地点というのは、つまり、この柱が立っていられなくなる日のことだ。
やりたくない計算だった。
でも、俺がやらなければ、この計算は世界のどこにも存在しない。
「おじさん」
声がして、振り向いた。
配信の子だった。
撮影機のランプは、消えている。
「今日、朝も来てましたよね。ていうか昨日も。……毎回、何してるんですか」
「音を聴いてます」
「音?」
「この柱の音です。下がってるので」
彼女は柱を見上げて、それから耳を澄ますような仕草をした。
たっぷり十秒くらい、じっとしていた。
聴こうとする人を、久しぶりに見た。
聴こえるかどうかと、聴こうとするかどうかは、別の話だ。
「……ブーンって言ってるだけですけど」
「そのブーンが、六日前より一音近く低いんです」
「はあ」
分からない、という顔だった。
当然だと思う。
毎日聴いていなければ、分からない。
昨日と今日の違いが分からなければ、六日前との違いは、もっと分からない。
責める話ではない。
毎日聴く仕事は、先週まで、俺の仕事だった。
「あの、おじさん。変なこと聞きますけど」
彼女は撮影機を抱え直して、少しだけ言いにくそうにした。
「それって、なんかまずいやつなんですか」
まずいやつです、と言いかけて、口を閉じた。
資格のない部外者が、配信をやっている子に、崩れるかもしれないなんて言ってどうする。
俺の耳以外に、根拠は何もないのだ。
騒ぎになれば、困るのは彼女だ。
言うべき相手は、彼女ではない。
「……まずくならないように、聴いてるんです」
「ふうん……?」
彼女は納得していない顔のまま、でもそれ以上は聞かずに、ぺこりと会釈して帰っていった。
いい子だな、と思った。
撮影機を担いだ背中が、通路の角に消えるまで、なんとなく見送った。
今日の配信で、彼女は「あの人のことを笑わないの」と言った。
番組の空気より、通りすがりの一人の側に立つ配信者は、たぶん、あまりいない。
◇
閉場のアナウンスが鳴って、見学通路から人が消えた。
俺と、柱だけが残った。
非常灯だけになった見学通路は、昼より、音がよく通る。
警備の人が回ってくるまでの数分だけが、俺と柱の時間だ。
最後にもう一度、柵の金物に耳を当てる。
柵は床を伝って、柱の基部と繋がっている。
触れない柱の音は、繋がった金物が運んでくる。
唸り。
朝より低く、昼より低く。
六日前のあの音から数えて。
一音、近く。
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