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ダンジョン点検員、リストラされる。〜「何もしてない」と切られた俺の巡回ルートで、翌週から事故が止まらない〜  作者: 更田遅筋


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第2話 計器は嘘をつかないが、遅れる

翌朝、退職手続きのために、もう一度管理棟へ行った。


総務の窓口で、保険と年金の書類に判を押していく。


健康保険の資格喪失届、年金の変更届、退職金の振込先、昨日返した貸与品の返却確認、それから名前を読む気にもならない何か。


十年が、書類七枚で終わっていく。


窓口の向こうでは、今日も公社が普通に回っている。


電話が鳴り、コピー機が唸り、給湯室で誰かが笑っている。


俺の十年が終わる日も、世界は平日だった。


七枚目の判を押しながら、俺は昨日からずっと考えていたことを、口に出すことにした。


「あの、すみません。手続きとは別件なんですが」


「はい?」


「第三結界柱の音が、下がっています。四日で半音。至急、支持部の点検を入れたほうがいいと思います」


窓口の女性は、きょとんとした顔で俺を見た。


当然だと思う。


総務に言うことではない。


「……ええと、設備の件でしたら、保全課にお願いします」


「ですよね。すみません」



保全課の島では、後任の管理会社の主任が対応してくれた。


先月から入った、外部委託の会社だ。


机の上には引き継ぎの資料が山になっていて、その一番上に、俺の書いた設備台帳の写しが載っていた。


覚えることが、多いのだろう。


それでも主任は、手を止めて、話を聞いてくれた。


俺の話を聞くと、主任は椅子を回して、壁の監視盤を指さした。


「第三柱ですよね。ほら」


盤の上で、第三結界柱の欄のランプは、全部緑に灯っていた。


魔素圧、正常。


出力、正常。


温度、振動値、全部正常。


「数値、どこも問題ないんですよ」


「音はどうやって測ってるんですか」


「音?」


主任は、少し笑った。


馬鹿にした笑いではなかった。


本当に、質問の意味が分からない顔だった。


「音の項目は、ないですね。振動値なら取ってますけど、規定値内です」


そうだろうな、と思った。


計器が測っているのは、揺れの大きさと、柱の出力だ。


耳が聴いているのは、音色だ。


柱の唸りは、一つの音じゃない。


低い基音の上に、細い倍音が何層も重なって、あの独特の唸りになっている。


支持部が痩せ始めると、出力より先に、揺れの大きさより先に、まず倍音の重なり方が崩れる。


音の大きさは変わらないまま、音色だけが、静かに濁っていく。


濁りは、数字にならない。


倍音の並びそのものは、機械でも拾える。


ただ、どこからが劣化の濁りで、どこまでが柱ごとの元々の癖なのか、閾値では区切れない。


その癖を数値にした前例が、まだどこにもないだけだ。


そして出力は、最後の最後まで落ちない。


結界柱という装置は、支持部が痩せても、罅が入っても、健気に定格どおりの仕事を続ける。


限界を超えた瞬間に、一度に全部やめる。


計器は嘘をつかない。


ただ、決定的に遅れる。


その差が、普通は四十一日ある。


四十一日あれば、書類が三往復しても間に合う。


四日では、書類は一往復もしない。


「あの、失礼ですけど」


主任が、俺の胸元を見た。


昨日返却したから、そこにはもう、職員証がない。


「灰田さん……ですよね。昨日付で退職された」


「はい」


「お気持ちは分かりますけど、うちも規定の点検周期でやってますので。数値に出てない憶測で臨時点検を組むのは、ちょっと」


憶測。


俺は頭を下げて、保全課を出た。


言われてみれば、そのとおりだ。


数値に出ていないものは、憶測だ。


十年、この耳だけを頼りに補修時期を決めてきたけれど、考えてみれば、あれを決裁に使える書式は、最初からどこにもなかった。


十年、書式がなくても、困らなかった。


俺が聴いて、俺が直して、俺が記録すれば、それで回っていたからだ。


外に出た途端、俺の耳は、どこの様式にも載らない音になった。



帰り際、受付の前を通った。


「灰田さん」


受付の鶴見さんが、カウンター越しに俺を呼び止めた。


俺と同い年で、俺が配属された年からずっとここにいる人だ。


「手続き、終わりました?」


「はい。お世話になりました」


「……さっき、保全課で何か言ってました? 声、聞こえちゃって」


受付から保全課の島までは、仕切り一枚だ。


少し迷ってから、言った。


「第三柱の音が下がってます。四日で半音。俺の経験だと、こういう下がり方をした柱は、そのまま止まりません」


鶴見さんは、笑わなかった。


きょとんともしなかった。


黙って引き出しから受付日誌を出して、ページの隅に何かを書きつけた。


「……何を書いたんですか」


「日付と、今の話」


顔を上げずに、彼女は言った。


「灰田さんの巡回記録、私、十年ぶん受け取ってきたんですよ。提出時刻が一分もずれない記録を、十年」


「はあ」


「その人が音が変だって言うなら、変なんですよ。私は計器のことは分からないですけど、それだけは分かります」


なんと返せばいいのか、分からなかった。


十年で、こんなふうに言われたのは、初めてだった。


鶴見さんは日誌を閉じて、引き出しに戻した。


受付の日誌は、公文書だ。


処分されない限り、残る。


「でも、私が上に言っても、たぶん通らないです。ごめんなさい」


「いえ。書いておいてもらえるだけで」


日誌に残る。


それが今の俺にできる、精一杯の公式記録だった。



管理棟を出て、ゲートの前で足が止まった。


入場ゲートの脇に、一般見学者用の券売機がある。


探索者資格がなくても、浅層の見学通路までは入れる。


昔からある制度だ。


社会科見学の小学生と、観光客のための。


守っているところを見せるのが一番の説明になる、というのが公社の建前で、入場料が浅層の維持費になる、というのが本音だと聞いている。


見学ポイントは柵で仕切られていて、柱には指一本、届かない。


届くのは、目と、耳だけだ。


俺も入社の研修で一度だけ歩かされて、それきり、縁がなかった。


中で働く人間には、外から入る理由がない。


料金表を見た。


一般入場券、一枚八百円。


第三結界柱の見学ポイントは、浅層通路の一番奥だ。


音を聴くだけなら、そこで足りる。


俺は財布を開いて、中身と、失業保険の初回支給日を思い浮かべた。


思い浮かべてから、気づいた。


俺はもう、この柱を聴く義務なんて、一円ぶんもないのだった。


券売機のボタンを押した。


見学通路は、思っていたより明るかった。


順路の矢印と、柵と、結界柱の仕組みを説明する子供向けの看板。


「けっかいちゅうは、まちをまもるだいじなせつびです」


内側から毎日見ていた場所に、こんな看板が立っていることを、俺は十年、知らなかった。


一番奥まで、歩いて十五分。


途中の壁に、見学に来た子供たちの描いた絵が貼ってあった。


クレヨンの結界柱は、どれも虹色に塗られていた。


実物は黒一色だと、教えるべきかどうか、少し考えた。


柵越しに、第三結界柱の黒い胴が見えた。


十年間、柵の内側から見ていたものを、初めて外側から見た。


耳を澄ます。


低い唸り。


昨日より、また下がっている。


半音と、少し。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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