第2話 計器は嘘をつかないが、遅れる
翌朝、退職手続きのために、もう一度管理棟へ行った。
総務の窓口で、保険と年金の書類に判を押していく。
健康保険の資格喪失届、年金の変更届、退職金の振込先、昨日返した貸与品の返却確認、それから名前を読む気にもならない何か。
十年が、書類七枚で終わっていく。
窓口の向こうでは、今日も公社が普通に回っている。
電話が鳴り、コピー機が唸り、給湯室で誰かが笑っている。
俺の十年が終わる日も、世界は平日だった。
七枚目の判を押しながら、俺は昨日からずっと考えていたことを、口に出すことにした。
「あの、すみません。手続きとは別件なんですが」
「はい?」
「第三結界柱の音が、下がっています。四日で半音。至急、支持部の点検を入れたほうがいいと思います」
窓口の女性は、きょとんとした顔で俺を見た。
当然だと思う。
総務に言うことではない。
「……ええと、設備の件でしたら、保全課にお願いします」
「ですよね。すみません」
◇
保全課の島では、後任の管理会社の主任が対応してくれた。
先月から入った、外部委託の会社だ。
机の上には引き継ぎの資料が山になっていて、その一番上に、俺の書いた設備台帳の写しが載っていた。
覚えることが、多いのだろう。
それでも主任は、手を止めて、話を聞いてくれた。
俺の話を聞くと、主任は椅子を回して、壁の監視盤を指さした。
「第三柱ですよね。ほら」
盤の上で、第三結界柱の欄のランプは、全部緑に灯っていた。
魔素圧、正常。
出力、正常。
温度、振動値、全部正常。
「数値、どこも問題ないんですよ」
「音はどうやって測ってるんですか」
「音?」
主任は、少し笑った。
馬鹿にした笑いではなかった。
本当に、質問の意味が分からない顔だった。
「音の項目は、ないですね。振動値なら取ってますけど、規定値内です」
そうだろうな、と思った。
計器が測っているのは、揺れの大きさと、柱の出力だ。
耳が聴いているのは、音色だ。
柱の唸りは、一つの音じゃない。
低い基音の上に、細い倍音が何層も重なって、あの独特の唸りになっている。
支持部が痩せ始めると、出力より先に、揺れの大きさより先に、まず倍音の重なり方が崩れる。
音の大きさは変わらないまま、音色だけが、静かに濁っていく。
濁りは、数字にならない。
倍音の並びそのものは、機械でも拾える。
ただ、どこからが劣化の濁りで、どこまでが柱ごとの元々の癖なのか、閾値では区切れない。
その癖を数値にした前例が、まだどこにもないだけだ。
そして出力は、最後の最後まで落ちない。
結界柱という装置は、支持部が痩せても、罅が入っても、健気に定格どおりの仕事を続ける。
限界を超えた瞬間に、一度に全部やめる。
計器は嘘をつかない。
ただ、決定的に遅れる。
その差が、普通は四十一日ある。
四十一日あれば、書類が三往復しても間に合う。
四日では、書類は一往復もしない。
「あの、失礼ですけど」
主任が、俺の胸元を見た。
昨日返却したから、そこにはもう、職員証がない。
「灰田さん……ですよね。昨日付で退職された」
「はい」
「お気持ちは分かりますけど、うちも規定の点検周期でやってますので。数値に出てない憶測で臨時点検を組むのは、ちょっと」
憶測。
俺は頭を下げて、保全課を出た。
言われてみれば、そのとおりだ。
数値に出ていないものは、憶測だ。
十年、この耳だけを頼りに補修時期を決めてきたけれど、考えてみれば、あれを決裁に使える書式は、最初からどこにもなかった。
十年、書式がなくても、困らなかった。
俺が聴いて、俺が直して、俺が記録すれば、それで回っていたからだ。
外に出た途端、俺の耳は、どこの様式にも載らない音になった。
◇
帰り際、受付の前を通った。
「灰田さん」
受付の鶴見さんが、カウンター越しに俺を呼び止めた。
俺と同い年で、俺が配属された年からずっとここにいる人だ。
「手続き、終わりました?」
「はい。お世話になりました」
「……さっき、保全課で何か言ってました? 声、聞こえちゃって」
受付から保全課の島までは、仕切り一枚だ。
少し迷ってから、言った。
「第三柱の音が下がってます。四日で半音。俺の経験だと、こういう下がり方をした柱は、そのまま止まりません」
鶴見さんは、笑わなかった。
きょとんともしなかった。
黙って引き出しから受付日誌を出して、ページの隅に何かを書きつけた。
「……何を書いたんですか」
「日付と、今の話」
顔を上げずに、彼女は言った。
「灰田さんの巡回記録、私、十年ぶん受け取ってきたんですよ。提出時刻が一分もずれない記録を、十年」
「はあ」
「その人が音が変だって言うなら、変なんですよ。私は計器のことは分からないですけど、それだけは分かります」
なんと返せばいいのか、分からなかった。
十年で、こんなふうに言われたのは、初めてだった。
鶴見さんは日誌を閉じて、引き出しに戻した。
受付の日誌は、公文書だ。
処分されない限り、残る。
「でも、私が上に言っても、たぶん通らないです。ごめんなさい」
「いえ。書いておいてもらえるだけで」
日誌に残る。
それが今の俺にできる、精一杯の公式記録だった。
◇
管理棟を出て、ゲートの前で足が止まった。
入場ゲートの脇に、一般見学者用の券売機がある。
探索者資格がなくても、浅層の見学通路までは入れる。
昔からある制度だ。
社会科見学の小学生と、観光客のための。
守っているところを見せるのが一番の説明になる、というのが公社の建前で、入場料が浅層の維持費になる、というのが本音だと聞いている。
見学ポイントは柵で仕切られていて、柱には指一本、届かない。
届くのは、目と、耳だけだ。
俺も入社の研修で一度だけ歩かされて、それきり、縁がなかった。
中で働く人間には、外から入る理由がない。
料金表を見た。
一般入場券、一枚八百円。
第三結界柱の見学ポイントは、浅層通路の一番奥だ。
音を聴くだけなら、そこで足りる。
俺は財布を開いて、中身と、失業保険の初回支給日を思い浮かべた。
思い浮かべてから、気づいた。
俺はもう、この柱を聴く義務なんて、一円ぶんもないのだった。
券売機のボタンを押した。
見学通路は、思っていたより明るかった。
順路の矢印と、柵と、結界柱の仕組みを説明する子供向けの看板。
「けっかいちゅうは、まちをまもるだいじなせつびです」
内側から毎日見ていた場所に、こんな看板が立っていることを、俺は十年、知らなかった。
一番奥まで、歩いて十五分。
途中の壁に、見学に来た子供たちの描いた絵が貼ってあった。
クレヨンの結界柱は、どれも虹色に塗られていた。
実物は黒一色だと、教えるべきかどうか、少し考えた。
柵越しに、第三結界柱の黒い胴が見えた。
十年間、柵の内側から見ていたものを、初めて外側から見た。
耳を澄ます。
低い唸り。
昨日より、また下がっている。
半音と、少し。
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