第1話 成果ゼロの男
「灰田くん。君はこの十年、成果報告をただの一件も上げていない」
会議室の長机の向こうで、査定部長の皆木がそう言った。
穏やかな声だった。
責めるというより、決まりきった書類を読み上げるような声。
「昇降機の油差し。結界柱の見回り。照明の交換。排水路の掃除」
「それは、仕事と呼べるのかね」
窓の外では、第七ダンジョンの入場ゲートに探索者の列ができている。
「探索者の稼ぎで、君たち設備班の給料は出ている。その自覚はあるかね」
「公社は来期から、収益に直結しない部門を整理する。何もしていない人間を、雇い続ける余裕はない」
何もしていない。
俺は口を開きかけて、やめた。
「……十年、お世話になりました」
椅子を引き、頭を下げた。
顔を上げたとき、皆木は少しだけ、拍子抜けした顔をしていた。
会議室を出るとき、ドアの横で、査定部の若い職員が目を伏せた。
議事録係だろう。
今日が何件目の面談なのかは、知らない。
廊下の掲示板には、「経営効率化推進月間」のポスターが貼ってあった。
◇
管理棟を出ると、昼の光が目に刺さった。
十年間、ほとんど地下にいたせいだ。
ゲートには、会議室の窓から見えたのと同じ、探索者の列。
列の先頭が資格証をかざすたび、読み取り機が短く鳴る。
彼らが魔石を一つ持ち帰れば、公社の帳簿に数字が載る。
俺の十年には、載せる数字が一つもない。
それは、そのとおりだ。
第七ダンジョン、地下三十八層。
昇降機が四基、結界柱が九本、照明が千百二十個、排水路が延べ十四キロ。
それを区画に分けて、毎日歩いて回った。
十年で、歩いた距離はだいたい二万二千キロになる。
地球を半周して、少しお釣りが来る。
朝七時、第三柱の音を聴く。
昇降機四基の巻き上げを順に聴いて、遊びの増えた滑車に油を差す。
千百二十個の照明は、切れる前に音で分かる。
灯具の中で安定器がジジ、と鳴き始めたら、次の休場日に交換する。
排水路は、水音の高さで詰まりの位置が分かる。
夕方、詰所に戻って、記録を書く。
それだけの、十年だ。
その間、俺の担当区画で、設備が原因で死んだ人間は一人もいない。
──成果報告がゼロなのは、報告するべき事故を、一件も起こさせなかったからだ。
そこまで考えて、自分で笑ってしまった。
やめよう。
こういうのを、負け惜しみと言うのだ。
起きなかった事故は、誰にも数えられない。
数えられないものは、なかったことと同じだ。
世の中はそういうふうにできていて、それが正しいのだと思う。
俺はただ、油を差していただけの男だ。
三十四歳、無職。
履歴書に書ける肩書きは、今日から、それだけになった。
考えてみれば、俺は最初、あの列に並ぶ側になりたかったのだ。
二十歳から三年、探索者試験を受けて、三回落ちた。
落ちたのは、三回とも実技だ。
筆記と、設備構造と、応急処置の科目は、三回とも満点だった。
的に向かって剣を振ると、途中で教官が笛を吹いて止めに来る。
そのくらい、駄目だった。
三回目の不合格通知が届いたのは、二十二歳の春だった。
同じ封筒に、公社設備班の募集案内が同封されていた。
拾われた、ということだと思う。
ただし、枠が空くまで、二年待たされた。
二十四歳で、ようやく第七の詰所に配属された。
それから十年、剣の代わりに油差しを持って、地下を歩いた。
向いていたのだとは、思う。
少なくとも、笛は一度も吹かれなかった。
◇
私物を取りに、最後にもう一度だけ第七の詰所へ向かった。
ゲート前で、若い探索者の女の子とすれ違った。
歳は二十代前半。
背中に配信用の撮影機材。
腰に降下用の命綱。
その命綱の金具が、歩くたびに鳴っていた。
カチ、カチ、と鳴るはずの音が。
カチャ、と濁って聞こえた。
「すみません」
気がついたら、呼び止めていた。
「その腰の金具、中の板バネがへたってます。今は嵌まってますけど、荷重をかけて三十メートルも降りたら、たぶん抜けますよ」
「……え?」
彼女は目をまるくして、それから金具を外して、耳の横で振ってみせた。
「これ、先週買ったばっかりですよ? 傷とかも、どこにもないですけど」
「外からは見えないです。音が違うので」
「音」
「はい」
工具袋の底に、予備の板バネが残っていた。
詰所の借り物の作業台で、三分。
金具はカチ、と乾いた音を取り戻した。
「はい。これで大丈夫です」
「……えっと、音って言いました? 今、ほとんど見ないで直しました?」
「見ましたよ、ちゃんと」
「音でわかるんですか? バネのへたりが?」
「わかりますよ」
何を驚いているんだろう、と思った。
「毎日聴いてれば、普通、わかると思いますけど」
彼女は、口を半分開けたまま俺を見ていた。
変な子だな、と思った。
◇
詰所のロッカーには、大した物は残っていなかった。
替えの作業着と、欠けた湯呑みと、十年使った工具袋。
工具袋の油差しは、柄が手の形に凹んでいる。
湯呑みは配属の年に売店で買ったもので、縁が欠けたのは五年前だ。
捨てるほどのものも、飾るほどのものも、なかった。
段ボール一つで、足りた。
詰所を出る前に、警備員に職員証を差し出した。
「今日で、最後なので」
警備員は一瞬、意外そうな顔をしてから、回収用の小さな箱に証を落とした。
会釈をして、外に出た。
帰り道、第三結界柱の前を通った。
第七の心臓部だ。
高さ十二メートルの黒い柱が、地下から生えて天井を貫いている。
柱はいつも、低く唸っている。
魔素の圧を抑え込む、あの独特の唸り。
十年間、毎朝この音を聴いてから巡回を始めた。
俺にとっては目覚まし時計みたいなものだ。
その前で、足が止まった。
「……」
段ボールを置いて、柱に耳を近づけた。
唸りが。
半音、低い。
聞き間違いかと思って、三分待った。
低いままだった。
先週の金曜、退職前の最後の巡回では、いつもの音だった。
巡回は、その金曜で委託の会社に引き継いだ。
今週の俺の仕事は、面談の日を待つことだけだった。
つまりこの柱は、四日で半音下がった。
結界柱の劣化は、ゆっくり進む。
音が下がり始めてから支持部が崩れるまで、普通は、平均で四十一日かかる。
四十一日あれば、補修は余裕で間に合う。
だから今まで、何も起きなかった。
でも。
四日で半音は、速すぎる。
こんな下がり方は、十年で一度も聴いたことがない。
俺は柱を見上げた。
十二メートルの黒い胴は、見た目には、いつもと何も変わらない。
通りすがりの見学者が、柱に耳を当てている俺を、少し離れて避けていった。
無理もない。
計器盤のランプは、魔素圧も、出力も、温度も、全部、涼しい顔で緑に灯っている。
緑というのは、便利な色だ。
見た人間に、それ以上考えさせない。
「……誰かに、言わないとな」
言ってから、思い出した。
俺はもう、ここの点検員ではないのだった。
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