第28話 画面の端のおじさん
火曜の朝の第九は、機械の半分だけが起きている。
搬入のコンベアが半速で回るあいだ、柱の音が機械の下から顔を出す。
港から潮のにおいが上がってきて、桟橋のクレーンはまだ寝ていた。
詰所の前では、夜勤明けの人たちが、湯気の立つ紙コップを持って並んでいた。
十一番の基部で足を止め、目を閉じた。
下がり幅、変わらず。
濁り、あり。
速さの欄は、今日も空欄。
手帳に書いて顔を上げると、瀬川さんが赤鉛筆を耳に挟んで立っていた。
「十一番、どうです」
「昨日と同じです」
「変わらんなら、よし」
瀬川さんは自分のボードに何か書きつけて、朝の列に戻っていった。
定点を始めて二日目の朝は、もう誰にも振り返られなかった。
日課というのは、二日目から日課の顔をするらしい。
コンベアが全速に戻る音で、今日の窓が閉まった。
◇
昼、保全室の机で、手帳の予定の欄を開いた。
第四・二番、と自分の字で書いてある。
第九が終わったら夜の順路に足します、と大久保さんに言ったのは、突貫の五日目の朝だった。
第九は、終わった。
電話をかけると、二回で出た。
「灰田です。明日の閉場後、二番を聴きに伺いたいのですが」
『……ほんとに来るんですね、あんた』
「約束したので」
『うち、換気塔なんて洒落たものはないですよ。どこで聴くんです』
「換気塔がないなら、鍵で入ります。保全室の権限に、閉場後の立ち入りが入ってます。第四の所長さんには、今日中に話を通しておきます」
『……じゃあ、通用口の内側で待ってます』
「大久保さんは、いいんですよ。夜ですし」
『うちの柱ですよ』
それだけ言って、電話は切れた。
◇
――同じ日の午後。動画投稿サイト、急上昇の一角
【神回】画面端のおじさん、全部聴こえてた【伝説の夜】
ひと月半前の崩落の夜の動画から、切り出された三分だった。
伸びの角度が、元の動画のときより急だった。
何回見ても鳥肌が立つ
「音がしてたでしょう、ずっと」のとこで毎回泣く
人間側の計器って呼ばれてるの好き
切り抜きから来た人は元の動画も見てくれ
見た。三分で分かった気になってた自分が恥ずかしくなった
三分の動画の下に、十秒の動画が生まれ、十秒の下に、一言の字幕だけが残った。
短くなるほど、速く回った。
◇
水曜の夜は、北公園の換気塔を先に回ってから、第四に向かった。
閉店後の駅前ビルは、案内放送もエスカレーターも止まって、床のワックスのにおいだけが濃かった。
昼間の第四しか、俺は知らなかった。
大久保さんは、通用口の内側で待っていた。
「書類、見ました。ほんとに通ってるんですね、ああいうの」
「権限は、鍵の親戚なので」
「……真顔で言うんだ、そういうこと」
入構の記録に室長証を通し、大久保さんが順番に照明を入れて、二番柱の基部まで歩いた。
通路の自動販売機だけが、閉店後も一人で明るかった。
すれ違った警備の人が、大久保さんに会釈して、俺の顔を見て、もう一度会釈した。
昼間は買い物客の足音が層になって降ってくる場所に、今夜は設備の音しかなかった。
楔と当て金は、打った日の形のまま、灯りの下で鈍く光っていた。
「応急のあと、湧きは落ち着いてます。例の三割増も、頭打ちです」
「数字が先に、いい報せをくれてますね」
「あんたが言い出した数え方でしょうが」
柵の外からではなく、基部の前で、目を閉じた。
機械が寝ているぶん、柱の声はよく通った。
下がり幅は、応急の前から動いていない。
濁りは、ある。
倍音の端が、まだ薄く滲んでいる。
第七の四番に残っているのと、同じ濁りだった。
「どうです」
「下がりは止まってます。濁りは残ってますが、進みは月単位です。急ぎません」
「……俺にも、聴かせてもらえますか」
大久保さんは基部に耳を寄せて、長いこと動かなかった。
一分は、聴いていたと思う。
顔を上げて、首を振った。
「駄目だ。ブーンとしか聴こえん」
秋津さんが、ノートに同じことを書いていた。
「代わりに、においは正常です。油も、水も、埃も」
大久保さんは、自分の鼻を指の背で叩いた。
「三十年、これでやってきたので。耳はあんたに任せます。鼻は、俺が持っときます」
役割の分け方があんまり自然だったので、返事の代わりに頷いた。
「順路には、週二回で足します。歪みの進みが月単位なので、それで足ります」
「上等です。毎晩来る気だったら、追い返すつもりでした」
「第七の換気塔が、毎晩あるので」
「無理のない範囲で頼みますよ。あんたに倒れられるのが、市内で一番困る」
帰り際、浅層の通気口の前で、足が止まった。
湧きの気配が、静かだった。
荒れていた頃の音を知っているので、静かなだけで、いい報せになった。
大久保さんも隣で足を止めて、鼻から息を一つ吸って、頷いた。
計器が二つに増えた夜だった。
通用口を出ると、大久保さんは、閉まったシャッターに向かって、鍵を二度確かめた。
「じゃ、次は金曜に」
「はい。よろしくお願いします」
駅までの道で、ルカさんから電話が来た。
『おじさん、いま大丈夫ですか』
「大丈夫です。歩いてます」
『……謝りたいことが、あって』
配信のときの声では、なかった。
『切り抜き、って分かります』
「短い動画ですよね。秋津さんが、昼休みによく見てます」
『崩落の日の私の動画から、勝手に切った動画が、いっぱい出てるんです。今週、それがすごく回ってて。運営にも聞いたんですけど、切り抜き自体は規約の内側で、止める手がなくて。……ごめんなさい。元は、私の動画なので』
「元は、俺の声なので、ルカさんのせいではないです」
『でも』
「事実しか話してないはずです、あの夜のことは。ルカさんもです」
電話の向こうが、静かになった。
『……そうなんです。全部ほんとのことなんです。切られても、盛られてない。それは私が保証できます』
「なら、困ることはないと思いますが」
『そう、なんですけど』
ルカさんは、何かを二度ほど言いかけて、やめた。
『変なことになったら、すぐ教えてください。私、一応そっち側のプロなので』
「変なこと、が起きたら、そうします」
電話を切ると、夜道には、いつもの街の音が戻った。
切り抜き、という言葉だけが、しばらく耳に残った。
◇
――同じ夜。匿名掲示板・第七ダンジョン検証スレ
例の切り抜き、母親に見せたら泣いてた
国民的おじさん
でもあの人が何をどう聴いてるのか、ちゃんと説明できる奴いる?
本人が答え言ってたろ。毎日聴いてれば普通、って
で、俺らも聴けば分かるんじゃね?
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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