第27話 市の外から来た男
月曜の朝、第九の半速の窓で、十一番の音を取った。
初日の窓に、差分はない。
比べる昨日を、今日から作る。
手帳の十一番のページに、最初の一行が入った。
「明日から、数字が出ますからね」
瀬川さんが、ボードに十一番の欄を書き足した。
六番の欄のあった場所より、一段上だった。
消した欄の跡が、まだうっすら残っている。
残っているうちに、次の欄が要る現場だった。
報告書の宛先は、結局、所長にした。
市の上へは、市が運ぶのが筋です、と所長は言って、読み終えたその日のうちに、公社から管理局へ上げた。
それが、三日前だ。
◇
昼、保全室で様式の綴りを整理していた。
猪狩さんは第七の日で、秋津さんは書庫で様式の写しを刷っている。
部屋には、俺一人だった。
綴りの一枚目は、十一番の記録になっている。
二枚目からを、これから市内の全部の柱で埋めていく。
そこへ、内線が鳴った。
受付の鶴見さんだった。
『灰田さん。管理局の方が、お見えです』
「管理局」
『はい。それが、その』
受話器の向こうで、少し困った間があった。
『お名前を、おっしゃらないんです。管理局の者です、としか』
通してください、と言って、俺は綴りを机の端に寄せた。
来たのは、灰色のスーツの男だった。
四十代の半ばに見えた。
鞄は薄く、手ぶらに近い。
男は身分証を開いて見せた。
ダンジョン管理局の紋章と、顔写真。
名前の欄は、指で隠れていた。
隠しているのか、たまたまか、分からない持ち方だった。
「管理局の者です。灰田誠さんですね」
「はい」
「報告書を、読みました」
男は丸椅子に座って、手帳を開いた。
書き込みの詰まった手帳だった。
ページの角が、揃って折られている。
「確認したいことが、いくつかあります。柱のことではなく、あなたのことです」
「はい」
「あなたは、音程と音色の変化で結界柱の劣化を判定できる。報告書と、公社の記録と、ネットの検証は、そう言っています。特別な訓練を受けましたか」
「巡回です」
男のペンが、止まった。
「……訓練の、名称ですか」
「毎日、決まった順路で聴くことです。十年やりました」
「才能だと、思いますか」
「巡回です」
男はペンを置いて、俺の顔を見た。
それから、置いたペンをもう一度取った。
「同じことが、他人にできますか」
「十年あれば」
「十年」
「毎日聴けば、の話ですが」
男は手帳に、短く書いた。
書いた文字は、見えなかった。
「四十一日という数字の出所は」
「前任の記録です。三十年近く前からの記録に、俺の十年を足した平均です」
「前任」
「南雲さんという人です。俺は、記録でしか知りませんが」
ペンが、さっきより長く走った。
「記録の付け方を、教えてください」
俺は、手帳と、様式第一号の綴りを机に置いた。
「日付と、音です。下がり幅と、濁りと、速さを別の欄に書きます。推測を書くときは、推測と書きます」
男は手帳と様式を、時間をかけてめくった。
めくり方が、読む速さだった。
飾りのページの繰り方ではなかった。
「報告書の最後の推測の一行は、誰の判断で入れましたか」
「俺です。推測と書いた上でなら、書くべきだと思ったので」
「事実と推測を、分けて書く理由は」
「混ぜると、両方使えなくなるので」
男は、頷きもせずに、手帳のページを繰った。
質問の順番が、いい順番だった。
外から中へ、道具から人へ。
数えてから聞く人の、順番だった。
「……あなたの担当区画で、十年間の、設備起因の死亡事故は」
「ゼロです」
「国の統計と、一致します」
男は手帳を閉じて、初めて、少しだけ姿勢を崩した。
「灰田さん。国は、起きた事故なら、数えています。全国四十七基、三十年ぶんです」
「はい」
「設備起因の死亡事故が十年間ゼロの基は、四十七のうち、一つだけです」
男は、指を一本、立てた。
指の影が、机の上に一本、伸びた。
「第七だけです」
俺は、何と答えるべきか分からなかったので、事実を答えた。
「保って、よかったです」
男は、また調子の狂った顔をして、手帳を鞄にしまった。
鶴見さんの出したお茶は、最後まで、口をつけられないまま残った。
◇
帰り際、ドアの前で、男は振り向いた。
「第七だけ無事だった理由を、国は二通りで説明できます」
一本立てた指が、二本になった。
「あなたが本物か、記録が偽物か。——どちらでも、調べることは同じです」
疑われている、ということなのだと思う。
でも、不思議と、嫌な感じはしなかった。
数えてから決める人の言い方だったからだ。
「調べる順番としては、正しいと思います」
男は、ドアの取っ手に手をかけたまま、三秒、動かなかった。
「……失礼します」
一礼して、出ていった。
名前は、最後まで言わなかった。
内線がまた鳴って、鶴見さんの声がした。
『お帰りになりました。……受付の来訪簿、所属欄だけ書いて、氏名欄は空欄でした』
「そうですか」
『空欄のまま帰った人、十年で初めてです』
数える人が、また一人、この話の中に増えた。
疑われている件は、夕方のうちに猪狩さんへ電話で報せた。
隠すと、調べる側の手間が増えるからだ。
『……あんた、疑われてるのに、ずいぶん協力的ですね』
「早く調べ終わるほうが、柱のためなので」
電話の向こうで、猪狩さんが、あの中間の顔をしているのが分かった。
◇
夜、北公園に行った。
突貫のあいだ止まっていた換気塔の順路を、今夜から再開する。
犬の散歩の人とすれ違った。
前は進路を変えられたのに、今日は小さく会釈をされた。
会釈を返して、換気塔の点検口を開ける。
点検口の蓋は、半月あまりぶりの手に、覚えていたより重かった。
金属のダクトを渡ってきた、遠い唸り。
第七の、八本。
この点検口で、猪狩さんに、無理だ、と言われた夜があった。
今は、その人が赤鉛筆で始点に印をつけている。
四番は、突貫のあいだに、本処置を終えていた。
支持部の遊びの音が消えて、新しい金物の締まった音が、唸りの底に入っている。
いい仕事の音だ。
それでも、歪みは消えていなかった。
先週より、ほんのわずかに、深い。
支持部を新しくしても、この濁りだけは、残った。
濁りの理由は、支持部の外にいる、ということだ。
耳を澄ましたまま、頭の中に、今日までの音を並べる。
第七の四番。
第四の二番。
第九の十一番。
三つの歪みを重ねると、同じ形をしている。
同じ週に生まれて、同じ速さで、ゆっくり深くなっていく。
今夜も、三本とも、ゆっくりだ。
ゆっくりのうちに、間に合わせる。
市内で、三基。
国内で、四十七基。
……四十七分の三。
残りの四十四基は、今夜、誰が聴いてるんだろうな。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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