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ダンジョン点検員、リストラされる。〜「何もしてない」と切られた俺の巡回ルートで、翌週から事故が止まらない〜  作者: 更田遅筋


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第24話 元部長の置き土産

木曜の朝の窓で、六番の差分を取った。


残り八日、予定どおり。


瀬川さんがボードの数字を書き換え、秋津さんが入坑の正の字を書き始める。


正の字の横に、今日から天候の欄が増えていた。


誰に言われたのでもなく、自分で増やしたらしい。


係を頼んで、五日目の朝だった。


支持部の交換は、二本目の金物の締めに入った。


打つ、返る、打つ、返る。


現場の一日が、昨日と同じ形で回り出した。


大久保さんの班は、今日で応援の最終日だった。


「うちの二番も、たまには聴きに来てくださいよ」


「ここが終わったら、夜の順路に足します」


「……そうでした。あんた、そういう人でした」


大久保さんは笑って、若い人の頭を一つ叩いて、朝の列に戻っていった。



――同じ日の朝。公社・受付。鶴見奏視点


九時十二分に、皆木元部長が、査定部のフロアから降りてきた。


時刻は、癖で見た。


受付は、数える場所だからだ。


段ボールを、一つ抱えていた。


箱の持ち方で、中身の軽さが分かった。


ロビーにいた職員が二人、書類に目を落として、めくる手だけを動かした。


めくる速さが、読む速さではなかった。


エレベーターを降りて、受付の前を、まっすぐに通った。


立ち止まらなかった。


誰とも、目を合わせなかった。


警備員の前で足を止めて、職員証を外し、回収の箱に落とした。


警備員は、敬礼の形に手を上げかけて、途中で下ろした。


上げるのも下ろすのも、正解のない朝だった。


小さい音が、一つ。


ひと月と少し前、退職の手続きを終えて、この受付の前で立ち止まった人がいた。


お世話になりました、と言って、頭を下げていった人だった。


今日の人は、立ち止まらなかった。


何も、言わなかった。


自動ドアの前で、歩幅が一度だけ乱れて、すぐに戻った。


振り返りは、しなかった。


そのまま、出ていった。


自動ドアが閉まって、ロビーの音が戻ってくるまで、三秒かかった。


三秒を数えた自分に気づいて、やめた。


私は、閉まったドアに、職業の会釈をした。


顔を上げない、角度だけの会釈だった。


受付の時計は、九時十五分を指していた。


三分の、退場だった。


日誌は、開かなかった。


もう、要る記録ではないからだ。



昼、弁当の数を確かめていたら、事務所の入口に、公社の所長が立った。


スーツの腕に、風呂敷包みを一つ抱えていた。


瀬川さんが、お茶を出して、席を外した。


外し方が、話の種類を分かっている外し方だった。


「灰田さん。お仕事中に、すみません」


所長は応接の椅子に座らず、机の上で風呂敷を解いた。


見覚えのある綴りが、一冊出てきた。


「調査団の写しが済みましたので、原本は順次、書庫へ戻します。その前に、これを灰田さんにお返しできないか、という話が理事会で出まして」


「返す、というのは」


「書いたのは、灰田さんですから」


所長の声は、栄転を告げる声ではなかった。


扱いに困っているものを、正直に困ったまま持ってきた声だった。


俺は、綴りを見た。


十年の、最初の一冊だった。


背の擦れ方で、分かる。


表紙の隅の年度は、俺が配属された年だった。


最初のページの字は、今の俺の字より、少し大きかった。


二十四歳の字だった。


手に取って、開いた。


開いて、手が止まった。


ページの端に、付箋。


行の下に、鉛筆の線。


めくっても、めくっても、あった。


付箋は、どれも同じ色の同じ製品で、角がまだ立っていた。


十年前の紙の上で、付箋だけが新しかった。


貼られたのは、この春だ。


紙のほうが、そう言っていた。


鉛筆の線は、濃さが全ページで同じだった。


十年かけて引かれた線ではない。


短いあいだに、一人の手で、一息に引かれた線だ。


どこに引いてあるのかを、確かめた。


第三昇降機、滑車の遊び増大、注油、翌日消音。


排水路C系統、水音高め、閉塞除去。


第六層照明、安定器三基、鳴き始めのため休場日に交換。


第一柱、基音安定、経過観察のみ。


何も起きなかった日の、何も起こさなかった行。


第二昇降機、主索交換。作業完了!


五年前の夏の、覚えのある感嘆符の行にも、線があった。


線が引いてあるのは、そういう行ばかりだった。


音が変わった日の行と、その始末の行。


何かが起きる前に、何かを済ませた日の行。


事故の起きなかった理由が書いてある行にだけ、線が引いてあった。


読んだ人は、分かったのだ。


この綴りに、成果という言葉が一行もない理由が。


数字にならない仕事の、数字にならない理由が。


分かった上で、成果ゼロ、と書いた。


読めたのに、読まなかったことにした。


「……灰田さん?」


所長の声で、顔を上げた。


どのくらい黙っていたのか、分からなかった。


「この付箋と線は、査定より前に付いたものですね」


「ええ。調査団も、そう認定したそうです。付箋の製品の発売時期と、春の貸出の日付で」


「そうですか」


紙というのは、書いた字も、引かれた線も、貼られた糊の新しさも、同じだけ残す。


残ったものが、今日、全部の順番を証言した。


数字で反論できない者から切れば、整理は速い。


俺は、あの会議室で、反論しなかった。


切りやすい相手だったのだろう、と思う。


それから、猪狩さんの玄関先で言った、自分の言葉を思い出した。


あのときのあなたは、正しかった。


本心だった。


今度は。


正しかった、とは、思えなかった。


綴りを閉じて、所長に返した。


「これは、公社の記録です。書庫に戻してください」


「……お手元に置かれても、誰も何も言いません。理事会の総意です」


「記録は、書いた人間のものじゃないです」


言ってから、続きを探した。


「守られた人たちの、ものです」


うまく言えた気はしなかったが、所長は綴りを両手で受け取り直した。


受け取り直した手つきが、さっきより丁寧になっていた。


「他の九冊は、どこに」


「書庫に、戻っています」


所長は、少し間を置いて、付け加えた。


「書庫の当該棚は、施錠をやめました。閲覧簿に判を押せば、誰でも読めます」


鍵の掛かる場所を、一つずつ減らしていくのが、あの理事会の後始末らしかった。



所長は風呂敷を包み直して、湯呑みの茶を一口飲んで、それから、座り直した。


帰る動きでは、なかった。


窓の外では、コンベアが低く回り続けていた。


「灰田さん。もう一つ、理事会で決まったことがあります」


「はい」


所長は、息を一つ置いた。


「灰田さん。保全の部屋を、正式に作ります」


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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