第24話 元部長の置き土産
木曜の朝の窓で、六番の差分を取った。
残り八日、予定どおり。
瀬川さんがボードの数字を書き換え、秋津さんが入坑の正の字を書き始める。
正の字の横に、今日から天候の欄が増えていた。
誰に言われたのでもなく、自分で増やしたらしい。
係を頼んで、五日目の朝だった。
支持部の交換は、二本目の金物の締めに入った。
打つ、返る、打つ、返る。
現場の一日が、昨日と同じ形で回り出した。
大久保さんの班は、今日で応援の最終日だった。
「うちの二番も、たまには聴きに来てくださいよ」
「ここが終わったら、夜の順路に足します」
「……そうでした。あんた、そういう人でした」
大久保さんは笑って、若い人の頭を一つ叩いて、朝の列に戻っていった。
◇
――同じ日の朝。公社・受付。鶴見奏視点
九時十二分に、皆木元部長が、査定部のフロアから降りてきた。
時刻は、癖で見た。
受付は、数える場所だからだ。
段ボールを、一つ抱えていた。
箱の持ち方で、中身の軽さが分かった。
ロビーにいた職員が二人、書類に目を落として、めくる手だけを動かした。
めくる速さが、読む速さではなかった。
エレベーターを降りて、受付の前を、まっすぐに通った。
立ち止まらなかった。
誰とも、目を合わせなかった。
警備員の前で足を止めて、職員証を外し、回収の箱に落とした。
警備員は、敬礼の形に手を上げかけて、途中で下ろした。
上げるのも下ろすのも、正解のない朝だった。
小さい音が、一つ。
ひと月と少し前、退職の手続きを終えて、この受付の前で立ち止まった人がいた。
お世話になりました、と言って、頭を下げていった人だった。
今日の人は、立ち止まらなかった。
何も、言わなかった。
自動ドアの前で、歩幅が一度だけ乱れて、すぐに戻った。
振り返りは、しなかった。
そのまま、出ていった。
自動ドアが閉まって、ロビーの音が戻ってくるまで、三秒かかった。
三秒を数えた自分に気づいて、やめた。
私は、閉まったドアに、職業の会釈をした。
顔を上げない、角度だけの会釈だった。
受付の時計は、九時十五分を指していた。
三分の、退場だった。
日誌は、開かなかった。
もう、要る記録ではないからだ。
◇
昼、弁当の数を確かめていたら、事務所の入口に、公社の所長が立った。
スーツの腕に、風呂敷包みを一つ抱えていた。
瀬川さんが、お茶を出して、席を外した。
外し方が、話の種類を分かっている外し方だった。
「灰田さん。お仕事中に、すみません」
所長は応接の椅子に座らず、机の上で風呂敷を解いた。
見覚えのある綴りが、一冊出てきた。
「調査団の写しが済みましたので、原本は順次、書庫へ戻します。その前に、これを灰田さんにお返しできないか、という話が理事会で出まして」
「返す、というのは」
「書いたのは、灰田さんですから」
所長の声は、栄転を告げる声ではなかった。
扱いに困っているものを、正直に困ったまま持ってきた声だった。
俺は、綴りを見た。
十年の、最初の一冊だった。
背の擦れ方で、分かる。
表紙の隅の年度は、俺が配属された年だった。
最初のページの字は、今の俺の字より、少し大きかった。
二十四歳の字だった。
手に取って、開いた。
開いて、手が止まった。
ページの端に、付箋。
行の下に、鉛筆の線。
めくっても、めくっても、あった。
付箋は、どれも同じ色の同じ製品で、角がまだ立っていた。
十年前の紙の上で、付箋だけが新しかった。
貼られたのは、この春だ。
紙のほうが、そう言っていた。
鉛筆の線は、濃さが全ページで同じだった。
十年かけて引かれた線ではない。
短いあいだに、一人の手で、一息に引かれた線だ。
どこに引いてあるのかを、確かめた。
第三昇降機、滑車の遊び増大、注油、翌日消音。
排水路C系統、水音高め、閉塞除去。
第六層照明、安定器三基、鳴き始めのため休場日に交換。
第一柱、基音安定、経過観察のみ。
何も起きなかった日の、何も起こさなかった行。
第二昇降機、主索交換。作業完了!
五年前の夏の、覚えのある感嘆符の行にも、線があった。
線が引いてあるのは、そういう行ばかりだった。
音が変わった日の行と、その始末の行。
何かが起きる前に、何かを済ませた日の行。
事故の起きなかった理由が書いてある行にだけ、線が引いてあった。
読んだ人は、分かったのだ。
この綴りに、成果という言葉が一行もない理由が。
数字にならない仕事の、数字にならない理由が。
分かった上で、成果ゼロ、と書いた。
読めたのに、読まなかったことにした。
「……灰田さん?」
所長の声で、顔を上げた。
どのくらい黙っていたのか、分からなかった。
「この付箋と線は、査定より前に付いたものですね」
「ええ。調査団も、そう認定したそうです。付箋の製品の発売時期と、春の貸出の日付で」
「そうですか」
紙というのは、書いた字も、引かれた線も、貼られた糊の新しさも、同じだけ残す。
残ったものが、今日、全部の順番を証言した。
数字で反論できない者から切れば、整理は速い。
俺は、あの会議室で、反論しなかった。
切りやすい相手だったのだろう、と思う。
それから、猪狩さんの玄関先で言った、自分の言葉を思い出した。
あのときのあなたは、正しかった。
本心だった。
今度は。
正しかった、とは、思えなかった。
綴りを閉じて、所長に返した。
「これは、公社の記録です。書庫に戻してください」
「……お手元に置かれても、誰も何も言いません。理事会の総意です」
「記録は、書いた人間のものじゃないです」
言ってから、続きを探した。
「守られた人たちの、ものです」
うまく言えた気はしなかったが、所長は綴りを両手で受け取り直した。
受け取り直した手つきが、さっきより丁寧になっていた。
「他の九冊は、どこに」
「書庫に、戻っています」
所長は、少し間を置いて、付け加えた。
「書庫の当該棚は、施錠をやめました。閲覧簿に判を押せば、誰でも読めます」
鍵の掛かる場所を、一つずつ減らしていくのが、あの理事会の後始末らしかった。
◇
所長は風呂敷を包み直して、湯呑みの茶を一口飲んで、それから、座り直した。
帰る動きでは、なかった。
窓の外では、コンベアが低く回り続けていた。
「灰田さん。もう一つ、理事会で決まったことがあります」
「はい」
所長は、息を一つ置いた。
「灰田さん。保全の部屋を、正式に作ります」
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