第23話 一枚の報告書
水曜の朝の窓で、六番の差分を取った。
「残り九日です。予定どおり」
「予定どおり、いただきました」
瀬川さんが、ボードの数字を書き換えた。
隣のボードでは、秋津さんが今朝の入坑を正の字で数えている。
係が板についてきたのか、字が昨日より四角い。
支持部の交換は、今日から二本目の金物に入る。
打つ、返る、打つ、返る。
いい調子の音を聴きながら、俺は今日が水曜であることを、いったん頭の外に置いた。
置いたつもりだった。
◇
――同じ日の午後。公社本部・三階の廊下。鶴見奏視点
証人は、呼ばれるまで廊下で待つ。
規則だそうだ。
本部の三階に上がったのは、十年勤めて、今日が初めてだった。
受付の人がお茶を出してくれたが、口はつけなかった。
湯呑みが空だと、手が空く。
空いた手は、震えを数えられてしまう。
長椅子に座って、私は呼び出し状をもう一度読んだ。
理由の欄には、こうある。
「貴殿の提出した進言文書、および顛末書に関する事実確認のため」
崩落の前に私が書いて、宙に浮いたままだった二枚の紙に、調査団が行き当たった、ということらしい。
保存してくださいと言った人がいたから、紙は、まだあった。
廊下の壁越しに、声は聞こえない。
聞こえないものは、数えられない。
だから待つあいだ、私は聞こえるものだけを数えた。
ドアが開いて閉じたのが、四回。
書類を抱えて走る足音が、二回。
廊下は、静かだった。
静かな廊下ほど、中の話が重い。
四十分待って、私の名前が呼ばれた。
入って、分かった。
空気が、すでに変わっていた。
長机に、理事が九人。
端の席に、皆木部長。
誰も、部長のほうを見ていなかった。
机の中央に、見覚えのある綴りが、開いて置いてあった。
小さくて四角い字が、遠目にも分かった。
春に、私の判子で貸し出した、あの三十センチのうちの一冊。
引き出しの奥で鍵の音を聞いた夜から、ひと月ぶりの再会だった。
綴りの隣には、受付の貸出台帳も置いてあった。
私の判子のページに、付箋が立っていた。
その隣に、もう二枚。
私の書いた進言文書と、顛末書の写し。
紙が四つ、机の上で、初めて一列に並んでいた。
部長の手元には、何もなかった。
書類の一枚も持たずに、あの人はこの部屋に座っていた。
「鶴見奏さん。見聞きしたことを、お話しください」
議長席の人が言った。
「日付と、見たことを申し上げます」
声は、震えないでくれた。
十年、受付で鍛えた声だった。
用意してきたのは、それだけだった。
今年の春、査定部が点検報告の綴り十年分を一括で取り寄せたこと。
受け渡しの貸出台帳に、私の判子と日付が残っていること。
崩落の二日後の夜、査定部のフロアで、部長の机にその綴りの一冊が開かれていたこと。
閉じられて、机の一番下の引き出しに移されたこと。
鍵の、回る音がしたこと。
日付は、その夜のうちに、受付の日誌に書いてある。
それだけを、順番に言った。
言い終わるまで、質問は一つも入らなかった。
言い終わってからの質問は、二つで止んだ。
「憶測や推測は、含まれていますか」
「含まれていません。見たことだけです」
「日誌は、提出できますか」
「原本を、持参しています」
「以上ですか」
「以上です」
書記のペンが、走って、止まった。
議長席の人が、皆木部長に発言を促した。
部長は、証言のあいだ、一度も私のほうを見なかった。
促されても、立たなかった。
座ったまま、穏やかな声で言った。
「……点検報告に、成果の記載は、ありませんでした。査定は、記載に基づいて行いました」
嘘では、なかった。
あの綴りに、成果という言葉は一行もない。
書くことを、盛らない人の記録だから。
理事の一人が、無言で綴りを引き寄せて、ページをめくった。
めくるたびに、紙の端で、色が動いた。
付箋だった。
ページの端に、小さい付箋が、十年分。
行の下には、鉛筆の傍線が、十年分。
めくる手が、途中で止まった。
部屋の中で、動くものが、一つずつ止まっていった。
質問が、止まった。
ペンが、止まった。
咳払いさえ、止まった。
読んだ上での、成果ゼロだった。
それが分かる部屋に、それが分かる紙が、開いて置いてあった。
誰も、もう部長のほうを見なかった。
見ないことが、この部屋の結論だった。
私は、退出を許された。
壁の時計を見たら、入室から、ちょうど十分が経ったところだった。
ドアが閉まる直前、議長席の声が、処分の審議に移ります、と言うのが聞こえた。
廊下に出て、一度だけ、壁に手をついて息を整えた。
手帳の中では、契約更新の面談の日付が、この水曜の少し先で待っている。
今日の証言の中身次第では、あの面談は、短く済むのかもしれない。
短く済む、の意味は、考えないことにした。
受付に戻ったら、いつもの顔で座る。
それだけは、決めてある。
一階に降りると、窓口に、道を尋ねる来客が一人待っていた。
いつもの声が、ちゃんと出た。
出るものだな、と思った。
◇
昼の弁当は、三十四個で、数が合っていた。
配り終えた秋津さんが、余りゼロ、とボードの隅に書き足していた。
午後の打音も、いい調子のままだった。
作業を三分止める場面は、今日は一度もなかった。
それが、一番いい報告だった。
◇
夕方、事務所の電話が鳴って、猪狩さんに繋がった。
『灰田さん。理事会、終わりました。……懲戒解職です。皆木部長の』
「そうですか」
『そうですか、って、あんた』
「鶴見さんは」
『……立派でしたよ。日付と、見たことだけ。十分で終わったそうです』
「よかったです」
それ以上、聞くことは思いつかなかった。
横で聞いていた瀬川さんが、何か言いかけて、やめた。
何か思うことがあるはずの報せなのだろうと、思う。
思うより先に、耳が六番の順番を数えていた。
受話器を置いて、六番柱の点検口に戻る途中、事務所の隅のテレビが、夕方のニュースで理事会のことを短く報じていた。
画面の中で、街頭の誰かが言っていた。
「音を聴けば分かるらしいですね。すごい人がいるって」
音を聴けば分かる。
方法の話がそっくり抜け落ちた結論だけが、街を歩き始めている。
テレビは、次の話題に移った。
俺は、点検口に耳を当てた。
今夜の停止帯では、六番のほかの柱も、順に覚え直すつもりでいた。
比べる昨日は、多いほどいい。
打つ、返る。
六番は、今日も列に並んで、順番を待っている。
理事会の席に、俺はいなかった。
いなくてよかったと、今でも思う。
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