第25話 保全室長・灰田
月曜の朝の窓で、六番の差分を取った。
残り四日、予定どおり。
支持部の処置は、最後の金物の仕上げに入っている。
「昼から、公社に呼ばれてます。夕方には戻ります」
「例の、あれですか」
瀬川さんが、ボードにマグネットで俺の行き先を貼った。
行き先を貼られる身分に、いつの間にか戻っていた。
◇
公社の受付で、鶴見さんが顔を上げた。
「灰田さん。お待ちしてました」
カウンターの上に、俺宛ての書類が、もう揃えて置いてあった。
辞令の綴りと、入構証の更新と、判を押す場所に付箋。
「更新の面談、終わりました」
書類を差し出しながら、彼女は言った。
「五分で終わりました。次の一年も、ここに座ります」
「よかったです」
「それで、これは受付からの連絡事項なんですけど」
彼女は、少しだけ声を改めた。
「保全室の書類は、全部、受付を通りますから」
どの部屋で仕事をしても、紙の通り道は一つですから、と彼女は言った。
座る場所を、また自分で選んだ人の言い方だった。
◇
所長室で、辞令を渡された。
辞令は、一枚の紙だった。
十年を終わらせたのも書類七枚で、部屋を一つ始めるのも紙一枚だった。
「設備保全室の設置と、灰田さんの室長就任です」
「室長、ですか」
「はい」
「点検員では、駄目ですか」
臨時顧問のときと同じ交渉を、俺はもう一度試みた。
所長は、今度は引かなかった。
「室長の名がないと、予算と人事の権限が持てないんです。点検の順番を決めて、人を動かして、金物を買う。灰田さんが十年、一人でやってきたことを、今度は書類の上でやってもらうための名前です」
権限、という言葉を、頭の中で転がした。
書庫の施錠をやめた人が、権限の話をしている。
「……権限は、鍵の親戚ですね」
「そうです。開けるほうの鍵です」
呑むことにした。
肩書は、道具だ。
道具なら、使えばいい。
辞令と一緒に、端末の権限証を渡された。
「市内二十七本の生ログ、今日から全部閲覧できます。第七も、第四も、第九も」
画面に、二十七本の名前が並んだ。
四番と二番の生ログが、初めて同じ画面の中にいる。
並べて読むのは、第九が終わってからだ。
今週の俺の耳は、六番のものだった。
◇
保全室は、書庫の隣の小部屋だった。
長机が一つ、椅子が三脚、総務から借りた丸椅子が一つ、壁に市内三基の系統図。
ドアには、印刷したての紙が一枚、貼ってあった。
設備保全室。
紙の看板は、部屋より先に仕事を始めている気がした。
椅子の一つに、猪狩さんが座っていた。
「兼務辞令、もらいました。週の半分は、こっちです」
「第七は、いいんですか」
「崩落のあと、うち、公社預かりの出向って形になりましてね。もともと半分、公社の人間なんですよ」
猪狩さんの足元には、やけに厚い鞄が置いてあった。
聞く前に、彼は鞄を椅子の下へ押し込んだ。
もう一つの椅子には、秋津さんがいた。
「今日付で、異動になりました。……大久保班長が、うちの見習いを取るのか、って、電話口で三十分渋ったそうです」
渋ってもらえる見習いに、なった、ということだ。
◇
室の最初の仕事は、決めてあった。
書式だ。
聴音点検の結果を書き込める、公文書の様式。
数値に出てない憶測で臨時点検は組めない、と言われた日から、ずっと欠けていたものを、言われた側が作る。
紙に、枠を三つ引いた。
音程の変化。
音色の濁り。
進行の速さ。
「別々の欄なんですね」
秋津さんが、覗き込んだ。
「別々の病気なので」
夕方、様式の決裁を取りに、総務の担当の人が来た。
俺は欄の説明をした。
「音程が下がる速さと、倍音の崩れは、独立に動きます。速いが濁らない例と、遅いが濁る例が、両方あります。だから欄を分けないと、順位が」
担当の人は、書類と俺の顔を、三往復した。
伝わっていない顔だった。
俺が言い直す前に、横から秋津さんが言った。
「熱の欄と、咳の欄です。熱が高い順に診るか、咳が悪い順に診るか、両方見ないと決められないので、別の欄なんです」
「……ああ! なるほど」
担当の人は、二つ返事で決裁欄に判を押した。
一度で、通った。
通したのは、俺の言葉ではなかった。
隣で秋津さんが、今の説明をノートに書き留めていた。
自分の言葉を、自分で記録する係でもあるらしい。
「あの、ついでに伺いますけど」
判を押した担当の人が、様式を眺めて言った。
「音程って、機械で測って数字にできないんですか。そのほうが早くないですか」
「監視盤は、周波数を録っていません。三十年前の設計のままなので」
「録るように直せば」
「録れても、柱ごとの地声の癖と、劣化の濁りのあいだに、線が引けません。マイクを立てても、倍音の層が落ちます」
「じゃあ、当面は、耳なんですね」
「当面は、耳です」
だからこの様式には、耳が聴いた結果しか書けない。
書けるのは結果だけで、聴き方は書けない。
書きながら、そのことばかり考えていた。
聴き方を渡す方法は、この紙の外に、まだ丸ごと残っている。
数字が書式で出たら、戻ります、と言った人がいた。
この紙は、ああいう人の机まで届く形をしている。
届く形で書くのが、公文書だ。
◇
十九時、様式の清書が終わった。
右上の欄に、様式番号を振った。
保全室様式、第一号。
一号と書ける日が来るとは、保全課の島で頭を下げていた頃の俺は、思っていなかった。
俺は上着を取った。
第九の夜の停止帯まで、まだ間がある。
その前に、第七の換気塔を、久しぶりに一本だけ——
「室長」
ドアの前で、秋津さんに捕まった。
「今日、この椅子に一回も座ってません」
「座ってましたよ」
「それ、総務から借りてる丸椅子です。返す椅子です。室長の椅子は、そっちの、まだ誰も座ってないやつです」
言われて見ると、長机の奥の椅子だけ、梱包のビニールが掛かったままだった。
「……明日、座ります」
「絶対ですよ」
椅子は逃げないが、音は逃げる。
そう言いかけて、やめた。
時計を見ると、押し問答のあいだに、寄り道のぶんの時間が消えていた。
換気塔は、突貫明けの順路に足す。
俺は第九に戻った。
◇
深夜一時すぎ、第九の事務所で仮眠していたら、内線が鳴った。
停止帯の見回りに出ていた、瀬川さんからだった。
『灰田さん、すみません、起こして』
「いえ。どうしました」
『今、停止帯で……灰田さんの真似して、聴いてたんです。毎晩横で見てたんで、つい』
瀬川さんの声が、一度、途切れた。
『俺の耳なんで、自信はないです。ないんですが』
「はい」
『——六番じゃない柱の音が、変です』
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