第21話 封鎖か、修繕か
会議の朝も、六番柱の音から始めた。
保守停止帯は深夜だけだが、朝のシフト交代の十分間、コンベアは速度を半分に落とす。
半分なら、聴ける。
騒音の底から六番の唸りを引き上げて、昨日の朝の音と、差分を取る。
「……予定どおりです。今朝の時点で、残り十四日」
隣で待っていた瀬川さんが、大きく息を吐いた。
「予定どおり、で安心する日が来るとはね」
「予定どおりは、いい言葉ですよ。点検の仕事で二番目にいい言葉です」
「一番は」
「異常なし、です」
ゲートへ戻る道で、すれ違う作業員たちが、みんな一度、こちらを見た。
会議のことは、現場の全員が知っている。
全面封鎖になれば、今日が最後の採掘日になるかもしれない人たちだ。
視線は重かったが、逸らすものでもなかった。
俺は数字を持って行く係で、数字は、見られて減るものではない。
◇
会議室は、事務棟の二階だった。
窓の外でコンベアが動いていて、壁越しに、あの駆動音が薄く入ってくる。
議題の当事者が、会議のあいだも、ずっと鳴っている。
悪くない会議室だと思った。
長机に、公社の所長、第九の所長、法務の担当者、組合の代表、それから、保険会社の査定人。
査定人は、柏木と名乗った。
五十がらみの、物腰の静かな人で、電卓ではなく、小さい手帳を机に置いていた。
俺と瀬川さんが、二枚の紙を配って、会議が始まった。
全面封鎖案と、部分封鎖・集中修繕案。
法務の人が、先に口を開いた。
「第七の崩落から、まだ一月です。この時期に営業を続けて、万一があれば、公社は説明のしようがありません。全面封鎖が、法務としては唯一の推奨です」
正しい。
組合の代表——日に焼けた、手の大きい人だった——が、続けた。
「全面封鎖なら、採掘は全部止まる。うちの組合員だけで六百人。下請けを入れたら、その倍だ。何か月と言われても、待てる家計ばかりじゃない」
これも、正しい。
正しさが二つ、逆を向いて机に載っている。
俺の仕事は、どちらかを負かすことではなかった。
「部分封鎖案の中身を、説明します」
第九の断面図を広げた。
「悪いのは六番柱です。六番が受け持つのは、三十一層から下の区画。危険は、そこに限られます。三十層から上は、今日の時点では、安全です」
「今日の時点では、というのは」
法務の人が、正確に聞き返した。
「明日は明日の音で、線を引き直すからです。安全の線も、期限の数字も、毎朝、引き直します。今朝の期限は、残り十四日です」
「線が、動くということですか」
「動くとしたら、締まる方にだけ動きます。緩む方には、動かしません」
◇
「よろしいですか」
それまで黙っていた柏木さんが、手帳から顔を上げた。
「灰田さん。あなたの算定の枠組みを確認させてください。結界柱は、音が下がり始めてから崩れるまで、平均四十一日——そういう前提で、六番の残り日数を逆算しておられる」
「平均は、使っていません。六番は速いので、下がる速さは実測です。記録から借りているのは、終点のほうです。どこまで下がったら、柱が立っていられなくなるか、その数字だけです」
「では、その終点と、平均の四十一日は、どこの数字ですか。学会の論文ですか。国の技術基準ですか」
会議室が、静かになった。
壁越しのコンベアの音だけが、続いていた。
「前任の点検員の、記録の数字です」
俺は、正直に答えた。
「三十年近く前から書き溜められた、私的な業務記録です。俺の十年は、その検算です」
「検算、とおっしゃいますが」
柏木さんの声は、静かなままだった。
「第七は十年、事故ゼロだ。兆候から崩壊までの四十一日を、あなたは最後まで見届けたことが、おありですか」
「……ないです」
正確な指摘だった。
「いつも、手前で直してきたので。俺が検算できたのは、進み方が記録と一致し続けたことまでです。終点の四十一日そのものは、前任の記録と、崩れた第三柱の一例だけです」
「正確だ」
柏木さんは、初めて手帳に何かを書いた。
「正確な人だからこそ、申し上げます」
「ネットの集計もあります」
瀬川さんが、横から言った。
「例の検証スレが、公開データから独立に、平均四十一日を出しています」
「存じています」
柏木さんは、頷いた。
「その上で申し上げます。私的な記録と、匿名掲示板の集計は、保険の算定根拠に使えません。あなたの耳を疑ってはいないんです。保険は、疑う疑わないの商売ではないので。——書式の問題です。あなたの判断が正しくても、それを載せる公的な書式が、今のこの世界のどこにもない」
保全課の島で言われたのと、同じことを言われている。
言っている人が、あのときと同じくらい、正しいことも同じだった。
「当社の結論を申し上げます。部分封鎖案が可決された場合、決定には従います。ただし、当社は期間中の引受を降ります」
法務の人が、何か言いかけて、やめた。
「数字が、書式で出たら、戻ります」
柏木さんは、手帳を閉じた。
「それまでは、降りたままです」
◇
保険が抜けた部分封鎖案は、可決の条件を一つ失った。
補償のない現場に、人を入れる決裁は、誰にも押せない。
空気が固まりかけたとき、ドアがノックされた。
「ギルドから、申し入れです。……ご本人たちが、廊下に」
入ってきたのは、四人だった。
見覚えのある顔ぶれではない。
でも、格は、装備の音で分かった。
遊びのない留め具の音が、四人ぶん。
一人は真っ黒に日焼けしていて、一人は、やけに姿勢のいい仏頂面だった。
「S級の、残りの四人です」
日焼けの人が言った。
「第九の修繕をやるなら、補修班の護衛は、期間中、俺たち四人で持ちます。金は要りません」
「……無償の根拠を、伺っても」
法務の人が、職業的に聞いた。
「潜る場所がねえんですよ、今」
仏頂面の人が言った。
「第七は封鎖、第四は規制。ここまで止まったら、S級は失業だ。守るために潜るのが本業だと——まあ、最近、同業がそう言うんでね」
日焼けの人が、付け足した。
「火村からの伝言です。『第七が明けたら、俺も行く』だそうです」
組合の代表が、大きい手で机を叩いた。
「護衛が付くなら、話は別だ。掘りながら直す。うちは部分封鎖案に乗る」
公社の所長が、長いあいだ書類を見て、それから顔を上げた。
「補償は、期間中、公社が自己負担で持ちます。……第七で一度、灰田さんの数字を疑った組織として、二度目はありません」
採決は、要らなかった。
柏木さんだけが、最後まで、静かに降りたままだった。
帰り際、彼は俺の前で足を止めた。
「灰田さん。誤解のないように。私は、あなたの数字が書式になる日を、割と本気で待っています。保険屋は、正確な数字が世界で一番好きな人種なので」
「……書式は、作ります。いつか」
「いつか、ではなく」
柏木さんは、手帳を胸に入れた。
「お早めに。線を引く人が一人しかいない世界は、保険屋が一番嫌いな世界なので」
◇
夕方、決定書の写しが、第九の事務所に届いた。
部分封鎖、三十一層以深。
集中修繕、期限は期間内随時見直し。
その次の行で、目が止まった。
「安全区画の設定は、灰田臨時顧問の判断を基準とする」
判断を、基準とする。
俺の耳が、線になった。
一月前、八百円を払わないと柱にも近づけなかった耳が、六百人の職場の、安全と危険を分ける線になった。
線の内側で、明日から人が働く。
線の外側は、閉じる。
引いたのは、俺だ。
手が、少しだけ冷たくなった。
聴き間違えない自信なら、ある。
十年ぶんある。
怖いのは、そこじゃなかった。
線というものは、引いた瞬間から、引いた人間より偉くなる。
みんなが線を信じて、線の内側で安心する。
だから線は、古くなってはいけない。
「瀬川さん。明日の朝も、シフト交代の十分をください」
「……ええ。毎朝ですね」
「毎朝です」
引き直し続ける限り、線は、約束でいられる。
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