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ダンジョン点検員、リストラされる。〜「何もしてない」と切られた俺の巡回ルートで、翌週から事故が止まらない〜  作者: 更田遅筋


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第19話 見習いが来た

日曜の朝、第四の事務室に、公社の若いのが立っていた。


「本日付で配属になりました、秋津勇馬です! 二十四歳です! よろしくお願いします!」


声が、大きかった。


事務室の湯呑みが、少し鳴った。


所長の話では、来月あたりに保全の部署を新しく作るらしい。


その先付けで、俺に一人付けておく、ということだった。


「灰田です。よろしくお願いします」


「自分、灰田さんの崩落のときの無線、全部聞きました! 配信の切り抜きも全部見ました! あの、握手いいですか!」


「いいですけど」


握手をした。


握力が強かった。


第九行きは、月曜の約束だった。


新人の初日を放り出して行くわけにもいかない。


その場で瀬川さんに電話をして、二日ずらしてもらった。


『……待ちます。何日でも待ちますので』


受話器の向こうの声は、待ちます、と言いながら、待てない種類の声をしていた。


二日だ。


二日で、初日の面倒を見て、行く。



初日の教えは、二番柱の前から始めた。


応急を終えて、列に並んだ柱だ。


教材としては、ちょうどいい。


濁りはまだ残っていて、でも、命に関わる段階ではない。


「聴いてみてください」


秋津さんは柵に手をかけて、真剣な顔で、たっぷり一分聴いた。


「……ブーンって言ってます!」


「はい。そのブーンの中の、倍音が濁ってるでしょう」


「…………分かりません」


「下から二層目と三層目の境目です。ここが、こう、滲んでます」


「ここがこうって、どこがどうです!?」


「ここが」


「手で言われても!」


俺は、口を閉じた。


言葉が、見つからなかった。


十年、この濁りを言葉にする必要がなかった。


俺が聴いて、俺が直せば、済んでいたからだ。


濁りは、俺の中では手触りみたいにはっきりしているのに、外に出す言葉の形をしていない。


「……すみません。説明が、下手で」


「いえ! 自分の耳が悪いんだと思います!」


「耳は悪くないです。比べる昨日を、まだ持ってないだけです」


試しに、場所を変えた。


排水路の点検口の前で、上流と下流の水音を聴かせる。


「どっちの音が高いですか」


「……こっち! 右です!」


「正解です。右の先が、少し細くなってます」


「聴こえました! 俺、聴こえてます!」


「水音の高低は、誰でも聴こえます。笛と同じなので」


「あ、はい」


「倍音の濁りは、その先です。聴く、には階段があります。秋津さんは今、一段目に立ちました」


「……何段あるんですか」


数えたことがなかった。


俺は答えの代わりに、二番柱の方角を見た。


秋津さんも、つられて見た。


昨日と今日の違いが分からなければ、濁りは分からない。


毎日聴いていなければ、分からない。


前に、ルカさんに言った理屈を、俺は自分の見習いに、もう一度言っていた。


あのときは、それで済んだ。


通りすがりの人に、聴こえなくていい理屈だったからだ。


聴こえるようにする側に回った途端、同じ理屈が、壁になった。



二日目、秋津さんが自分の端末を持ってきた。


「灰田さん! 録音はどうですか! 正常な柱と二番を録って、聴き比べれば、差が分かるんじゃ」


いい思いつきだと思った。


一番柱と二番柱を、順に録った。


事務室で、再生した。


「……あれ?」


秋津さんが、首をかしげた。


「どっちも、同じブーンですね」


同じに、聴こえた。


俺の耳にも、だ。


端末のマイクとスピーカーは、人の声のための道具だ。


柱の唸りの、上に重なった細い倍音の層を、録る段と鳴らす段で、二回落とす。


濁りは、その落とされた層にいる。


「機械を通すと、肝心の層が消えるんですね……」


「この端末では、ですけど。ちゃんとした計測器なら、層そのものは録れるはずです」


「じゃあ、それを使えば」


「録れても、どこからが濁りで、どこまでが柱の癖なのか、線を引く書式がまだないです。線のない録音は、教材になりません」


「……つまり、今は」


「生の音でしか、教えられないみたいです」


言ってから、気づいた。


教科書が、作れない。


紙にも書けない。


録音にも残らない。


生の柱の前で、生の耳で、比べる昨日を積むしかない。


この仕事の教科書は、たぶん、まだこの世のどこにもない。


俺が南雲さんの記録で覚えたのは、手順と、判断の理由だ。


音そのものは、記録の余白と、十年の柱が教えてくれた。


つまり俺も、音は、誰にも教わっていない。


教わったことのないものの教え方を、俺は知らない。



三日目の昼、秋津さんの相槌が減った。


昼飯のとき、箸が止まっていた。


「秋津さん。頭、痛いですか」


「……っ、なんで分かるんですか!」


「瞬きが増えてます。耳を使いすぎると、そうなります」


「すみません! 昨日の夜、家でもずっと換気扇とか冷蔵庫とか聴いてて、朝から、こう、頭の奥が」


三日で、そこまでやったのか。


「今日は、もう聴かないでください」


「でも」


「耳は、目より先に壊れます。壊れたら、戻りません」


秋津さんは、箸を置いて、うつむいた。


「……自分、向いてないですかね」


即答は、しなかった。


嘘になるからだ。


三日聴いて頭痛が出るのは、耳の造りの話で、努力の話ではない。


火村さんは十二年やって、他人の剣の音は聴こえないと言った。


向き不向きは、ある。


それを本人に言う言葉を、俺は探した。


「向いてるかどうかは、分かりません。ただ、無理に続けると、耳を壊します。壊してまでやる仕事では、ないです」


「…………」


「なんで、この仕事を希望したんですか」


秋津さんは、顔を上げた。


「事故ゼロの十年って、資料で読みました。十年間、第七で誰も死ななかった。……俺、あれの作り方を知りたいんです」


まっすぐな目だった。


「自分の耳で無理なら、無理って分かるまでやります。それでも無理なら——」


彼は、胸のノートを叩いた。


「灰田さんの聴いたものを、全部書き取ります。灰田さんの言葉が下手なら、下手なまま録って、俺が読める形に直します。それなら、耳じゃなくてもできます」


初日から、彼のノートは俺の言葉で真っ黒だった。


一度だけ中を見せてもらったら、一ページ目にこう書いてあった。


「二番柱:ブーン(濁ってるらしい)」


らしい、の三文字に、彼の三日間の全部が入っていた。


ブーン、の書き取りから始まる、世界で一冊のノートだ。


「……お願いします」


それしか、言えなかった。



夜、北公園の換気塔。


いつもの点検口に、耳を当てる。


四番の音。


本処置の折り返しを越えて、支持部の遊びの音が、日ごとに減っていく。


いい経過だ。


聴くのは、簡単だった。


今日も、耳はただ聴いて、ただ分かる。


分かることと、分からせることのあいだに、こんなに距離があるとは、思っていなかった。


「……教えるのは、聴くより難しいな」


独り言は、夜の公園の、誰にも届かないところに落ちた。


明日は、第九だ。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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