第19話 見習いが来た
日曜の朝、第四の事務室に、公社の若いのが立っていた。
「本日付で配属になりました、秋津勇馬です! 二十四歳です! よろしくお願いします!」
声が、大きかった。
事務室の湯呑みが、少し鳴った。
所長の話では、来月あたりに保全の部署を新しく作るらしい。
その先付けで、俺に一人付けておく、ということだった。
「灰田です。よろしくお願いします」
「自分、灰田さんの崩落のときの無線、全部聞きました! 配信の切り抜きも全部見ました! あの、握手いいですか!」
「いいですけど」
握手をした。
握力が強かった。
第九行きは、月曜の約束だった。
新人の初日を放り出して行くわけにもいかない。
その場で瀬川さんに電話をして、二日ずらしてもらった。
『……待ちます。何日でも待ちますので』
受話器の向こうの声は、待ちます、と言いながら、待てない種類の声をしていた。
二日だ。
二日で、初日の面倒を見て、行く。
◇
初日の教えは、二番柱の前から始めた。
応急を終えて、列に並んだ柱だ。
教材としては、ちょうどいい。
濁りはまだ残っていて、でも、命に関わる段階ではない。
「聴いてみてください」
秋津さんは柵に手をかけて、真剣な顔で、たっぷり一分聴いた。
「……ブーンって言ってます!」
「はい。そのブーンの中の、倍音が濁ってるでしょう」
「…………分かりません」
「下から二層目と三層目の境目です。ここが、こう、滲んでます」
「ここがこうって、どこがどうです!?」
「ここが」
「手で言われても!」
俺は、口を閉じた。
言葉が、見つからなかった。
十年、この濁りを言葉にする必要がなかった。
俺が聴いて、俺が直せば、済んでいたからだ。
濁りは、俺の中では手触りみたいにはっきりしているのに、外に出す言葉の形をしていない。
「……すみません。説明が、下手で」
「いえ! 自分の耳が悪いんだと思います!」
「耳は悪くないです。比べる昨日を、まだ持ってないだけです」
試しに、場所を変えた。
排水路の点検口の前で、上流と下流の水音を聴かせる。
「どっちの音が高いですか」
「……こっち! 右です!」
「正解です。右の先が、少し細くなってます」
「聴こえました! 俺、聴こえてます!」
「水音の高低は、誰でも聴こえます。笛と同じなので」
「あ、はい」
「倍音の濁りは、その先です。聴く、には階段があります。秋津さんは今、一段目に立ちました」
「……何段あるんですか」
数えたことがなかった。
俺は答えの代わりに、二番柱の方角を見た。
秋津さんも、つられて見た。
昨日と今日の違いが分からなければ、濁りは分からない。
毎日聴いていなければ、分からない。
前に、ルカさんに言った理屈を、俺は自分の見習いに、もう一度言っていた。
あのときは、それで済んだ。
通りすがりの人に、聴こえなくていい理屈だったからだ。
聴こえるようにする側に回った途端、同じ理屈が、壁になった。
◇
二日目、秋津さんが自分の端末を持ってきた。
「灰田さん! 録音はどうですか! 正常な柱と二番を録って、聴き比べれば、差が分かるんじゃ」
いい思いつきだと思った。
一番柱と二番柱を、順に録った。
事務室で、再生した。
「……あれ?」
秋津さんが、首をかしげた。
「どっちも、同じブーンですね」
同じに、聴こえた。
俺の耳にも、だ。
端末のマイクとスピーカーは、人の声のための道具だ。
柱の唸りの、上に重なった細い倍音の層を、録る段と鳴らす段で、二回落とす。
濁りは、その落とされた層にいる。
「機械を通すと、肝心の層が消えるんですね……」
「この端末では、ですけど。ちゃんとした計測器なら、層そのものは録れるはずです」
「じゃあ、それを使えば」
「録れても、どこからが濁りで、どこまでが柱の癖なのか、線を引く書式がまだないです。線のない録音は、教材になりません」
「……つまり、今は」
「生の音でしか、教えられないみたいです」
言ってから、気づいた。
教科書が、作れない。
紙にも書けない。
録音にも残らない。
生の柱の前で、生の耳で、比べる昨日を積むしかない。
この仕事の教科書は、たぶん、まだこの世のどこにもない。
俺が南雲さんの記録で覚えたのは、手順と、判断の理由だ。
音そのものは、記録の余白と、十年の柱が教えてくれた。
つまり俺も、音は、誰にも教わっていない。
教わったことのないものの教え方を、俺は知らない。
◇
三日目の昼、秋津さんの相槌が減った。
昼飯のとき、箸が止まっていた。
「秋津さん。頭、痛いですか」
「……っ、なんで分かるんですか!」
「瞬きが増えてます。耳を使いすぎると、そうなります」
「すみません! 昨日の夜、家でもずっと換気扇とか冷蔵庫とか聴いてて、朝から、こう、頭の奥が」
三日で、そこまでやったのか。
「今日は、もう聴かないでください」
「でも」
「耳は、目より先に壊れます。壊れたら、戻りません」
秋津さんは、箸を置いて、うつむいた。
「……自分、向いてないですかね」
即答は、しなかった。
嘘になるからだ。
三日聴いて頭痛が出るのは、耳の造りの話で、努力の話ではない。
火村さんは十二年やって、他人の剣の音は聴こえないと言った。
向き不向きは、ある。
それを本人に言う言葉を、俺は探した。
「向いてるかどうかは、分かりません。ただ、無理に続けると、耳を壊します。壊してまでやる仕事では、ないです」
「…………」
「なんで、この仕事を希望したんですか」
秋津さんは、顔を上げた。
「事故ゼロの十年って、資料で読みました。十年間、第七で誰も死ななかった。……俺、あれの作り方を知りたいんです」
まっすぐな目だった。
「自分の耳で無理なら、無理って分かるまでやります。それでも無理なら——」
彼は、胸のノートを叩いた。
「灰田さんの聴いたものを、全部書き取ります。灰田さんの言葉が下手なら、下手なまま録って、俺が読める形に直します。それなら、耳じゃなくてもできます」
初日から、彼のノートは俺の言葉で真っ黒だった。
一度だけ中を見せてもらったら、一ページ目にこう書いてあった。
「二番柱:ブーン(濁ってるらしい)」
らしい、の三文字に、彼の三日間の全部が入っていた。
ブーン、の書き取りから始まる、世界で一冊のノートだ。
「……お願いします」
それしか、言えなかった。
◇
夜、北公園の換気塔。
いつもの点検口に、耳を当てる。
四番の音。
本処置の折り返しを越えて、支持部の遊びの音が、日ごとに減っていく。
いい経過だ。
聴くのは、簡単だった。
今日も、耳はただ聴いて、ただ分かる。
分かることと、分からせることのあいだに、こんなに距離があるとは、思っていなかった。
「……教えるのは、聴くより難しいな」
独り言は、夜の公園の、誰にも届かないところに落ちた。
明日は、第九だ。
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