第16話 第四の排水路
殻背負いの翌朝も、第四は普通に開いた。
普通に開けるために、昨日の夜のうちに決めたことが、いくつも動いている。
東回りの継続。
二番区画の立入自主規制。
浅層の巡回頻度の倍増。
営業の継続そのものは、公社と第四の所長の連名決裁で、この三つを条件に付けて、昨夜のうちに下りていた。
開けると決めた人の名前がある決裁は、閉めどきも決められる決裁だ。
守りは張った。
でも、守りは治療ではない。
治すためには、二番柱が痩せていく理由を、潰せるものから潰していくしかない。
朝の聴取で、俺は柱ではなく、床を聴いた。
この一週間、俺の耳は、二番の濁りと通気口の気配に、全部使われていた。
床下の水音は、営業中の商業ビルの騒がしさの下では、狙って聴かないと届かない。
今日から、狙う。
二番柱の区画の脇を、排水路が通っている。
第四の排水は、全層の水を集めて、湾側の処理場に送る設計だ。
耳を澄ます。
水音。
とと、とと、と流れる音の中に、一箇所だけ、音程の高いところがある。
水音は、水路の断面が細いほど、高くなる。
笛と同じ理屈だ。
高い音は、詰まりの音だ。
第七で十年、この音で詰まりの位置を当ててきた。
「大久保さん。排水路、詰まってます」
「……音で分かるんですか、それも」
「位置も分かります。二番柱の基部から、下流に八メートル。点検口で言うと、D-4の先です」
大久保さんは、もう驚かなかった。
手帳を出して、D-4、と書いた。
驚くのをやめた人は、書き取るのが早くなる。
◇
昼、閉場を待たずに、排水路の点検口が開いた。
営業への影響がない区画だったのが、幸いだった。
班の若い人が二人、防水の装備で降りていく。
俺も縁に膝をついて、覗き込んだ。
覗き込んで、片足を掛けたところで、襟を掴まれた。
「顧問はそこで」
大久保さんだった。
「位置は俺が言ったので、中の確認も俺が」
「顧問はそこで」
「狭い水路の音は、中で聴いたほうが」
「あんたの耳は、うちの班の備品じゃないんですよ」
言い方は冗談だったが、掴んだ襟は離れなかった。
備品より大事に扱われている、ということらしかった。
待っているあいだ、大久保さんは点検口に向かって、何度も「無理するな」と声を投げた。
返事は毎回、「大丈夫でーす」だった。
現場の無事は、だいたい、この間延びした返事でできている。
十五分後、下から声が上がった。
「班長ー! ありました! D-4の三メートル先、八割方塞がってます!」
引き上げられたのは、灰色の固まりだった。
油脂と土砂が、何年もかけて練り合わさったやつだ。
商業ビルの排水が混ざる系統では、よくできる。
「これが、柱と関係あるんですか」
「あります。詰まりの上流は、水位が上がります。上がった水は、逃げ場を探して、地盤に染みます」
「染みた先が」
「二番柱の基部です。支持部の金物は、濡れて乾いてを繰り返すと、痩せるのが早くなります」
大久保さんは、固まりと、二番柱の方角を、順番に見た。
「じゃあ、こいつを取れば」
「痩せる速さは、落ちるはずです」
はずです、で止めた。
落ちる幅は、取ってみて、聴いてみないと分からない。
その日のうちに、詰まりは撤去された。
水音から、高い一点が消えた。
とと、とと、と、二十六年前の設計どおりの音程で、水が流れ始めた。
◇
翌日の昼、ゲートの前でルカさんに捕まった。
「おじさん。約束、覚えてます?」
撮影機は、肩から降ろして、ランプも消えていた。
カメラを回さずに聞きに来た、ということだ。
「理由ができたら、教える約束です。……一昨日ので、半分は分かりましたけど。二番の柱が悪いから、あの区画の魔物が増えてるんですよね。ギルドの掲示にも、そう書いてあったし」
「はい」
「じゃあ、聞きたいのは残り半分です」
彼女は、少しだけ声を落とした。
「おじさん、柱が悪いって知ってて、私に浅層を勧めましたよね。悪いものが上がってくるのは、浅層なのに」
いい質問だった。
ごまかせる質問でもなかった。
「浅層は、安全な場所じゃないです」
俺は言った。
「逃げられる場所です」
「……逃げられる場所」
「はい。深層で何かに遭えば、地上まで一時間かかります。浅層なら、歩いて十分です。俺が皆さんにできるのは、危険をゼロにすることじゃなくて、何かあったときに、全員が歩いて帰れる場所に、いてもらうことです」
「一昨日、私、歩いて帰りました」
「見てました」
「走りません、歩きます、って言ったの、聞いてました?」
「防災センターで。あなたの配信も、モニターに出ていたので」
「……正しかったです、私」
「正しかったです」
ルカさんは、口をへの字にして、それから、ふっと崩した。
「……なんだ。ちゃんと理屈があるんじゃないですか。最初からそう言ってくれれば」
「騒ぎになると、困る段階だったので」
「今は?」
「掲示に書いてあるとおりです。あなたに関わる分で、隠してることは、もうないです」
「わかりました」
彼女は撮影機を担ぎ直した。
「じゃ、今日も浅層編でーす。……逃げられる場所、か。今度の配信で使っていいですか、それ」
「どうぞ」
「おじさんが言ってた、って言いますよ」
「言わなくていいです」
「言いまーす」
背中で手を振って、彼女はゲートの中に消えた。
撮影機の赤いランプが点くのが、改札の向こうに小さく見えた。
◇
週明けの月曜、朝一番で、楔の資材が届いた。
荷下ろしを横目に、俺は二番柱の前に立った。
詰まりを取って、三日。
柵に手をかけて、耳を澄ます。
濁りの進みを、この三日ぶんの記憶と並べて、差分を取る。
遅く、なっている。
進みの速さは、詰まりを取る前の、だいたい半分だ。
水は、確かに犯人の一人だった。
でも。
半分しか、遅くならなかった。
詰まりが痩せの理由の全部なら、進みは止まるか、止まる寸前まで落ちるはずだ。
半分残っている、ということは。
水以外の理由が、まだこの柱の中で、動き続けている。
「灰田さん。楔、今日の夜から入れます」
「お願いします。応急が効けば、残りの半分も、当分は抑えられます」
「残りの半分、ね」
大久保さんは、俺の言い方を、そのまま繰り返した。
「その半分の正体は、なんなんです」
「分かりません」
正直に言った。
「水を消して、残ったものが、まだ名前を持ってないので」
◇
夜、事務室の隅で、手帳を開いた。
三本の柱の記録を、横に並べる。
第三柱の、最後の八日間。
第七の四番の、この半月。
第四の二番の、この九日。
速さは、全部違う。
第三柱は崖で、四番は坂で、二番は、詰まりを取った今、緩い坂になった。
でも、下がり方の形。
倍音のどの層から、どの順番で崩れていくか。
その形が。
三本とも、同じ向きを向いている。
下がり方の形が、似ている。
速さは、違うのに。
手帳を閉じて、目を閉じた。
速さには、それぞれの理由があった。
第三柱の速さの理由は、まだ分からない。
二番の速さの理由は、半分が水だった。
でも、形の理由は。
形だけは、三本に共通の、何かだ。
まだ、言わない。
水を消したように、一つずつ消していって、最後に残ったものにだけ、名前を付ける。
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