第15話 浅層に、出ないはずのもの
あの通気口の音を聴いた日から、三日目の朝。
昨日も一日、この格子の前にいた。
昨日までの二日、あの重い音は、鳴っては消えるを繰り返していた。
三十秒鳴って、消える。
数時間おいて、また鳴る。
今朝は、消えるまでが長くなっていた。
俺は事務室から椅子を一つ借りて、地下通路の通気口の前に置いた。
行き交う買い物客が、格子に耳を寄せる作業服の男を、少し避けて通っていく。
第七の見学通路で、さんざん向けられた種類の視線だった。
慣れている。
巡回の警備員さんが、二度目に通ったとき、足を止めた。
「……何か、あります?」
「まだ、何も。あったら一番に知らせます」
「はあ」
警備員さんは、俺の顔と、胸の入構証を見比べて、それ以上は聞かずに行った。
昼までに、あと二回、同じ前を通った。
二回とも、少しだけ歩を緩めて、俺の顔を見た。
音は、昼前に変わった。
ず、ず、と間を置いて鳴っていた床擦れが。
ずず、ずず、と、繋がり始めた。
止まっていたものが、歩き出した音だ。
しかも、音の芯が、少しずつ浅くなっている。
上がってきている。
俺は無線を握った。
「大久保さん。例の音、動き出しました。浅層に向かってます」
『……分かりました。防災センターへ。放送の準備をします』
走った。
あの日から、俺の走る先は決まっている。
現場ではなく、無線の前だ。
◇
防災センターの監視盤は、まだ全部緑だった。
湧出感知の欄も、緑。
「感知器は三層の天井——二層に入った瞬間に鳴る位置です。届く前は、鳴りません」
大久保さんが、場内放送のマイクを引き寄せた。
「灰田さん。規模と場所、言えますか」
「音の重さからして、大型が一体。位置は二番区画の直下、深さは……もう二層に入ってます。浅層です」
「探索者が入ってる層だ」
「はい。放送を。文言は——」
言いかけたところで、監視盤の隅で、赤いランプが灯った。
湧出感知、第二層。
警報が、ダンジョン館内に鳴り始めた。
耳より三分遅れて、計器が追いついた。
「放送、入れます」
大久保さんの声が、地下二十二層に流れた。
『探索者の皆さんにお知らせします。第二層で大型の湧出を確認。第一層から第三層の方は、二番区画を避け、東回りの退避線で地上へ。繰り返します。東回りです』
◇
――『各務ルカのダンジョン日記・第四編その3』配信画面より
第二層、東側通路。
画面が、通路の奥を向いている。
遠くの曲がり角の向こうから、ずず、ずず、と石を擦る音が響いてくる。
「……皆さん、聞こえてますか。放送のとおりです。私は東回りで上がります」
配信主の声は、低く抑えられている。
おいおいおいおい
浅層だぞここ
音でかくない?
ルカちゃん急いで
昨日から順路の看板変わってたのこれか
東回りって掲示、朝ゲートにも出てた
準備良すぎだろ運営
いいから走って
「走りません。歩きます。走ると、前の人と詰まるので」
画面が揺れずに、一定の速さで通路を進んでいく。
前を歩く二人組の探索者が、振り向いてルカに頷く。
「そこのお二人も東回りですね。はい、このまま——」
通路の分岐で、画面が一瞬だけ、西側を映した。
通路の奥。
非常灯の下を、それが横切った。
甲羅だった。
通路の幅いっぱいの、岩みたいな甲羅が、脚も見せずに、床を擦って滑っていく。
擦り痕が、石の床に白く残った。
でっっっか
なんだあれ
殻背負いじゃん。八層のやつだぞ
なんで二層にいるんだよ
バグだろ
みんな逃げてるか?
ルカちゃん映さなくていいから逃げて
「大丈夫、あっちは西。私たちは東。……ほら、もう階段です」
画面が階段を上がりきると、地上の光が差した。
ゲートの外に、探索者たちが集まり始めていた。
誰も、走っていなかった。
ゲートの向こうの通路では、買い物客の流れが、いつもどおりに動いていた。
紙袋を提げた親子が、探索者の列を珍しそうに眺めて、通り過ぎていった。
◇
討伐は、三十分で終わった。
湧出の一報でゲートから引き返した、B級のパーティが三人。
リーダーの人は、昨日ギルドの掲示板で東回りの周知を見て、通路の図を頭に入れていたと言った。
「だから、挟む場所もすぐ分かったんですよ。東が退避線なら、西の行き止まりに追い込めばいい」
リーダーの人は、防災センターまで報告に来て、帰り際に、俺と大久保さんを順番に見た。
「あの掲示の通路図、線がやたら正確でしたけど、誰が引いたんです」
大久保さんが、黙って俺を顎で指した。
「地図は、班のみんなで作ったので」
「線を引いた人を聞いてるんですけどね」
「うちの班の仕事です」
「……はあ。まあ、助かりました」
リーダーの人は、納得していない顔のまま、頭を下げて帰っていった。
防災センターの監視カメラの中で、戦闘は淡々と進んだ。
行き止まりに追い込んで、甲羅の継ぎ目に三人で刃を入れて、終わり。
怪我人、ゼロ。
避難の混乱、ゼロ。
商業ビルの上の階では、湧出があったことに気づかないまま、昼の営業が続いていた。
守られている側は、守られたことに、気づかない。
それでいい。
気づかせない守り方が、一番いい守り方だ。
「……第八層の殻背負いです。二十六年で、二層まで上がってきたのは初めてだ」
モニターを見つめたまま、大久保さんが言った。
「初めてのことが、続きますね。灰田さんが来てから」
「俺が連れてきたみたいに言わないでください」
「違いない」
大久保さんは短く笑って、すぐに笑いを引っ込めた。
「……いや。あんたが来てなかったら、今日は初めての事故になってた。そういうことだ」
◇
夕方、事務室の机に、あの地図を広げた。
赤い正の字が偏った、二番区画。
討伐地点に、新しい印を付ける。
赤い群れの、ど真ん中だった。
数字が先に指していた場所に、実物が出た。
答え合わせとしては、これ以上ないくらい、はっきりしている。
はっきりしてほしくなかった答えだ。
「灰田さん。二番の応急、資材は月曜に入ります。段取りは組んである。……それまで、これが続くんですか」
「湧きの数は、柱を直すまで戻りません。ただ、今日みたいな大物が毎日出るわけじゃないです。圧の甘さは、まだ底が抜けたわけじゃないので」
「毎日じゃない、ですか」
「はい。でも、二度目はあると思って動く数字です。立入の自主規制と東回りは、月曜まで続けてください」
「分かりました」
大久保さんは頷いて、それから、地図の赤い群れを見下ろした。
「……開業から二十六年、浅層は安全な場所でした。子供の社会科見学も来る。それが」
「戻します」
自分でも思ったより、はっきりした声が出た。
「柱を直せば、湧きは引きます。数字も音も、そう言ってます。月曜に楔を入れて、本処置の順番を組んで、戻します」
「……ええ。頼みます」
大久保さんが帰ったあと、一人で地図を畳んだ。
畳む前に、もう一度だけ、赤い偏りを見た。
湧きは、柱の悲鳴の翻訳だ。
なら、あの柱は今、かなり大きな声で悲鳴を上げている。
俺の耳と、この地図にしか、まだ聞こえていない声で。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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