第14話 第四の柱は正常値のまま濁る
一日おいて、第四に来た。
朝一番で、六本を順に聴き直す。
初日に覚えた音と、今日の音の、差分を取る。
一番、三番、五番、六番。
差なし。
四番。
倍音の薄さは、初日とぴったり同じだった。
進んでいない薄さは、劣化ではなく、癖だ。
たぶん、が一つ消えて、確定に変わった。
こういう空振りが、点検の大半を占める。
空振りをちゃんと空振りと確かめるのが、仕事の半分だ。
最後に、二番。
柵に手をかけて、耳を澄ます。
濁りは、進んでいた。
倍音の二層目と三層目の境目が、初日より、ほんのわずかに溶けている。
二日で、これだけ。
遅い。
第三柱の崖とは、比べものにならないくらい、遅い。
このままなら、年単位で保つ計算になる。
急がなくていい、という意味ではない。
坂の傾きが緩くても、坂は坂だ。
そして、この濁り方の形は、緩い坂の形をしていない。
計器盤を見た。
二番の欄は、今日も全部、緑だった。
応急の段取りは、初日のうちに大久保さんが組んでいた。
ただ、楔に使う資材の入りが、週明けになる。
それまでの二番に、計器の代わりはない。
濁りの進みを知っているのは、市内でたぶん、俺の耳だけだった。
◇
昼、ゲートの前で、見覚えのある機材とすれ違った。
「あーっ、おじさん!」
ルカさんだった。
撮影機のランプは、まだ点いていない。
「なんで第四にいるんですか」
「仕事です。ルカさんこそ」
「引っ越しです、引っ越し。第七、当分入れないから。今日から『第四編』始めるんですよ」
彼女は撮影機を担ぎ直して、少し笑った。
「おじさんが直した金具、まだ現役です」
「そうですか」
それで、と言いかけて、先に言われた。
「浅層にしとけ、って顔してますね」
「……はい。当分、第三層より上で」
「またそれだ」
ルカさんは、大げさにため息をついてみせた。
ついてから、あっさり頷いた。
「わかりました。浅層編スペシャル。前もそれで助かったからなあ、私」
「助かります」
「そのかわり、理由ができたら、ちゃんと教えてくださいね」
理由なら、今探している。
そう思ったが、口には出さなかった。
◇
午後、事務室で、大久保さんに頼みごとをした。
「湧出記録を見せてもらえませんか。できれば、十年分」
「湧出記録? ……魔物の、ですか」
大久保さんは、目をしばたたかせた。
「柱の点検に、魔物の帳簿が要るんですか」
「要ると思います。たぶん」
「たぶん、ね」
大久保さんは笑って、倉庫から段ボールを三箱、運んできてくれた。
討伐報告の綴りだった。
日付、層、区画、種類、数。
探索者が持ち帰る報告を、ギルドと公社が二重に付けている。
几帳面な帳簿だった。
几帳面な帳簿は、それだけで半分、答えを持っている。
実際、半分どころではなかった。
綴りの各月の頭に、層と区画ごとの集計表が付いていた。
十年分は、この集計表で拾える。
全件を引き直すのは、直近の一年だけでいい。
「で、これをどうするんです」
「地図に、割り付けます」
第四の断面図を机に広げた。
六本の柱には、それぞれ受け持ちの区画がある。
柱は、自分の区画の魔素圧を抑えている。
だから、区画ごとに湧きの数を数え直せば、それは柱ごとの成績表になる。
「大久保さん、読み上げてもらえますか。俺が地図に印を付けます」
夕方から、二人で帳簿をめくった。
日付と区画を読み上げる声。
地図に正の字を刻む音。
途中から、班の若い人が二人、手伝いに加わった。
お茶が二回、配られた。
窓の外が暗くなって、地図の上だけが、正の字で黒くなっていった。
◇
夜九時に、十年分が終わった。
四人で、地図を覗き込んだ。
正の字は、六つの区画に、ほぼ均等に散らばっていた。
去年までは。
「……最近の一年だけ、見てください」
最後の一冊から付けた、赤い印。
赤だけが、偏っていた。
二番柱の受け持ち区画。
そこだけ、赤い正の字が、目に見えて多い。
「数えます」
若い人が電卓を叩いた。
「他の区画の平均に対して……二番区画、この一年で、三割増です」
三割。
計器は、緑。
音は、濁っている。
そして魔物は、三割、増えている。
「どういうことです、灰田さん」
大久保さんが、地図から顔を上げた。
「柱が痩せると、抑えている魔素の圧が、その区画だけ甘くなります。圧が甘くなると、湧きが増える。数字になるほど、増える」
俺は、赤い正の字の群れを指した。
「魔物は、柱の悲鳴の翻訳です」
事務室が、静かになった。
「……うちの班は、この一年、二番区画の討伐が増えたのを、探索者が増えたからだと思ってました」
「入場者数は、確認できますか」
「横ばいです。それは月報で知ってる」
大久保さんは、自分で言って、自分で顔をしかめた。
「入りが横ばいで、討伐だけ三割増えてたのか。……数字は、ずっとここにあったのにな」
帳簿は十年、棚にあった。
読み方が、なかっただけだ。
それは誰の落ち度でもない。
俺だって、耳がなければ、この帳簿を開こうとは思わなかった。
「大久保さん。この増え方が続くなら、一つ、気になることがあります」
「なんです」
「湧きの数が増える次の段階は、数じゃなくて、質です。圧が甘い区画には、本来その深さに出ないものが、上がってきます」
一昨日、通気口で聴いた、あの重い気配。
さざなみの底の、床を擦る音。
「……この増え方が柱のせいなら、浅層は今、設計より重いってことですか」
「はい。出ないはずのものが、出る前に、手を打ちます」
◇
手は、その夜のうちに打った。
打てる手は、湧きを止める手ではない。
湧きは、柱を直すまで止まらない。
打てるのは、出たときに、誰も死なない手だ。
第四の断面図に、大久保さんと線を引いた。
二番区画を通らずに、浅層から地上へ抜ける道。
東側の連絡通路を使う、遠回りの退避線。
「明日の朝までに、順路の掲示を東回りに替えます。誘導灯の向きも」
「無線の合図も決めましょう。『東回り』の一言で、全員がこの線に乗れるように」
「探索者への周知は、受付とギルド掲示で」
「上への報告は、朝一で俺が上げます」
大久保さんは、そう言ってから、少し笑った。
「昔なら、報告が通ってから動いたもんですがね。今は、動いてから報告しても、灰田さんの名前で通る」
通る名前になった覚えはないが、通るなら、使ってもらえばいい。
決めることを決めて、地図を畳んだ時には、日付が変わりかけていた。
大久保さんが、缶のお茶を投げてよこした。
「灰田さん。あんた、こういう夜、多いでしょう」
「多くないですよ」
十年で、こういう夜は、そんなになかった。
一人で決めて、一人で直せば済んでいたからだ。
四人で地図を囲む夜は、慣れていないだけで、悪くなかった。
帰りの地下通路で、通気口の前を通った。
足を止めて、耳を澄ます。
さざなみ。
換気扇の羽根。
その底に。
いた。
ず、と床を擦る、あの重い音。
一昨日より、少しだけ、はっきり。
方角は——二番の区画のほうだ。
三十秒で、また消えた。
赤い正の字の偏りと、同じ場所で、同じ音が鳴っている。
翻訳は、もう始まっている。
東回りの線を、頭の中でもう一度なぞってから、俺は地上に出た。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




