第13話 隣のダンジョンは音が濁る
臨時顧問としての最初の仕事は、隣町のダンジョンだった。
第四ダンジョン。
市内に三つあるダンジョンのうち、一番浅くて、一番人が多い。
駅前の商業ビルの地下に、入場ゲートが直結している。
朝の下りエスカレーターには、買い物袋を提げた人と、剣を背負った人が、同じ段に並んで立っていた。
パン屋の焼きたての匂いと、魔素避けの香の匂いが、途中の階で入れ替わる。
第七しか知らない俺には、少し不思議な眺めだった。
第七のゲートは、地上の、専用の敷地にあった。
ここは、街の続きに、地下二十二層が生えている。
閉めれば、駅前ごと止まる。
そういう場所なのだと、エスカレーターの二分で分かった。
ゲートの脇で、作業服の男の人が待っていた。
五十代の半ば。
胸の名札に、保全班長・大久保、とあった。
「灰田さんですね。話は、公社から聞いてます」
差し出された手は、厚くて、乾いていた。
工具を三十年握った手だ。
「本日から、月に何度か、こちらの柱を聴かせてもらいます」
「聴く、ですか」
大久保さんは、俺の顔と、俺の工具袋を、順番に見た。
疑っている顔ではなかった。
ただ、測っている顔だった。
現場の人が、現場に入ってくる人間を測るときの、あの顔だ。
「……第七の件は、うちの班でも、みんな知ってます。ただ、正直に言いますよ」
「はい」
「うちの柱は六本とも、開業から二十六年、無事故です。計器も全部緑だ。あんたの耳がどれだけのものか、俺はまだ、この目で見てない」
「そのとおりだと思います」
俺が頷くと、大久保さんは少しだけ、拍子抜けした顔をした。
「見てもらうのが一番早いです。回りましょう」
◇
第四の六本は、第七の九本より、若い音の柱だった。
唸りが軽い。
基音が高めで、倍音の層が素直に並んでいる。
一番、正常。
三番、正常。
五番と六番、正常。
四番——第四の四番柱は、少しだけ倍音が薄い。
たぶん、元々の癖だ。
たぶん、で今日は止めておく。
次に来た日に、今日の音と差分を取って、確かめる。
柱には、一本ずつ癖がある。
初対面の柱の癖は、健康な音を先に覚えてしまえば、あとで差分が取れる。
初日の仕事は、だから、覚えることだ。
大久保さんは、俺が柱に耳を澄ますあいだ、少し離れて黙って待っていた。
急かさない人だった。
現場で人を待てるかどうかは、その人が現場で待たされてきたかどうかで決まる。
最後が、二番柱だった。
商業ビル寄りの区画。
天井の向こうから、エスカレーターの駆動音がかすかに落ちてくる。
柵に手をかけて、耳を澄ました。
三秒で、分かった。
濁っている。
基音は正常の高さにいる。
音の大きさも、揺れも、たぶん規定の中だ。
でも、倍音の並びの、下から二層目と三層目のあいだが、滲んでいる。
境目が、溶けかけている。
この滲み方を、俺は知っていた。
崩落の、前の日まで。
毎日、朝と夕方に聴いていた音だ。
「大久保さん」
「はい」
「この二番、支持部を開けて見たいです。倍音が濁ってます」
大久保さんは、壁の計器盤を見た。
二番柱の欄は、魔素圧も出力も温度も、全部緑に灯っていた。
緑は、今日も便利な色をしていた。
「……計器は、正常ですが」
大久保さんは、そう言った。
言ってから、黙った。
計器盤と、俺の顔を、もう一度ずつ見た。
長い一拍だった。
「……いや。開けてみましょう」
◇
支持部の点検蓋は、二十六年ぶんの塗装で固くなっていた。
大久保さんが工具を取りに行き、班の若い人を二人呼んで、養生を敷いた。
俺も手を出そうとしたら、「顧問はそこで」と止められた。
肩書は、こういうときに邪魔をする。
ボルトを緩める音を聞きながら、大久保さんが、手を動かしたまま、ぽつりと言った。
「……俺が若い頃、排水の異臭に気づいたことがありましてね」
「はい」
「報告したんですよ。数値は全部正常でした。臭いなんてのは書式にないから、気のせいだろうで、流された」
レンチが、次のボルトに移った。
「三日後に、詰まりが噴きました。地下二階が、膝まで水に浸かった」
「……」
「誰も死ななかったから、笑い話です。ただ、それから三十年、俺は自分の鼻を信じることにしてる。数字は、あとから追いついてくるものだと思ってますよ」
それだけ言って、大久保さんは最後のボルトを抜いた。
さっきの一拍の中身を、説明の形にしないで、作業の手の中で渡された。
蓋が外れて、支持部が外の空気に触れた。
「灯り、当ててください」
若い人が作業灯を向ける。
支持部の金属の表面に、魔力紋が走っている。
柱の力が通る、木目のような細い筋だ。
健康な魔力紋は、筋の縁が、刃物で引いたように立っている。
二番柱の筋は。
縁が、滲んでいた。
インクの線に、水が一滴落ちたあとのように、輪郭がぼやけている。
ごく薄い。
言われなければ、たぶん誰も気づかない。
でも、並んで覗き込んだ大久保さんが、息を止めるのが分かった。
「……こいつは」
「魔力紋の滲みです。支持部が痩せ始める、一番最初の顔です」
「二十六年、開けたことがなかった。開ける理由が、なかったからな……」
大久保さんは、滲みと、天井の計器の配線を、順番に見た。
「これが出てて、計器は緑なんですか」
「緑です。滲みの段階では、揺れも出力も、まだ何も変わらないので」
「じゃあ、何が変わってるんです」
「音色だけです」
耳で見つけて、目で答え合わせをする。
十年、第七で一人でやってきた手順を、今日は初めて、隣に人がいる状態でやった。
答え合わせを一緒に見てくれる人がいると、こんなに早いのかと思った。
◇
閉場の時刻まで、二番柱の音を録るように聴いた。
濁りの位置。
滲みの深さ。
進みの速さは、まだ分からない。
今日の音を覚えて、次に来た日と、差分を取るしかない。
ただ、一つだけ、今日の時点で分かってしまったことがある。
倍音の境目の、溶け方の形。
下から順に、二層目と三層目のあいだから崩れていく、この順番。
第三柱が、最後の八日間で鳴らしていたのと、同じ種類の歪みだ。
速さは、全然違う。
第三柱のような崖ではなく、これは、まだ坂道ですらない。
でも、形が同じだった。
第七の四番で聴いた形と、同じ。
これで、三本目だ。
第七だけじゃ、なかった。
手帳に、日付と、聴いた音を書きつけた。
結論は、書かなかった。
二本では線にならないと思っていた俺の前に、三本目が、隣の町で鳴っていた。
それでも、まだだ。
この三本を線で結ぶ前に、消さなければいけない理由が、山ほどある。
水、工事、柱の個体差、施工の年代、それから、俺がまだ知らない第四の癖。
消し終わるまで、この形の話は、上には出さない。
「灰田さん。今日は、助かりました」
帰り際、ゲートの前で、大久保さんが頭を下げた。
「二番は、うちの班で応急の段取りを組みます。……また、来てもらえますか」
「来ます。仕事なので」
「仕事ね」
大久保さんは、少し笑った。
「あんたの仕事の値段、公社は分かって払ってるのかね」
返事に困ったので、黙っておいた。
◇
上りエスカレーターに乗る前に、浅層の通気口の前を通った。
商業ビルの地下通路に、ダンジョンの浅層の空気を逃がす格子が、壁に並んでいる。
歩きながら、癖で、耳がそっちを向いた。
風の音。
換気扇の羽根の音。
その奥に、浅層の生き物の気配が、遠く混ざっている。
湧きの音は、第七で十年聴いた。
浅い層の小物の気配は、さざなみみたいなものだ。
足が、止まった。
さざなみの底に、一つだけ、重い音がいた。
ず、と床を擦るような、聴き覚えのない気配。
浅層の音では、なかった。
三十秒、待った。
もう、聞こえなかった。
エスカレーターは、夕方の買い物客を、次々と地下に運んでいた。
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