第12話 臨時顧問
火村さんが「三日で決めてやる」と言った、その三日目の朝だった。
チャイムが鳴って、ドアを開けると、猪狩さんが立っていた。
今度は、作業服ではなくスーツだった。
ネクタイの結び目が、少し曲がっていた。
慣れていないのだと思う。
「灰田さん。……迎えに来ました」
「聞いてます。三日で決める、と言った人がいたので」
「決まりました。というか、決めさせられました」
猪狩さんは、疲れた顔で笑った。
「S級五人の連名の要望書。生還者の会の嘆願書、百三十五人中、百三十一人分。それと、署名が四万」
「四万」
「あの配信の子の視聴者さんたちだそうです。……うちの所長、昨日、書類の山を前にして言ってましたよ。この山より、崩落のほうがまだ軽かった、って」
冗談の言い方だったが、目は笑っていなかった。
「正式な話は、所長から。……その、なんです」
彼は、玄関先で少しだけ言い淀んだ。
「場所が、あの会議室なんです。査定の面談をやってた部屋。他が全部、調査団に取られてまして。……嫌なら、変えさせます」
「部屋は、部屋ですよ」
俺は、上着を取った。
いつも夜に換気塔へ持っていく、あの上着しか、なかった。
◇
会議室の長机の向こうに、所長が座っていた。
皆木部長の姿は、なかった。
査定部は関係のない議題だから、当然といえば当然だった。
ここで俺に引導を渡した部署のことを、今の俺は、思い出す暇もなかった。
所長は、俺が椅子に座る前に、立ち上がって頭を下げた。
「灰田さん。公社を代表して、お詫びとお願いに上がるべきところを、来ていただく形になって、申し訳ない」
「座ってください。話が聞けないので」
所長は、変な間を置いてから座った。
猪狩さんが、横で咳払いをした。
「単刀直入に申し上げます。公社は、あなたに戻っていただきたい。ただ、その、元の職制のままというわけには、世間が」
所長は、一枚の書類を、机の上で滑らせた。
「特別技術顧問。それが、用意できる一番上の席です」
肩書の横に、報酬の月額が書いてあった。
点検員の頃の、四倍あった。
「顧問というのは、何をする役ですか」
「は?」
「仕事の中身です」
所長と猪狩さんが、顔を見合わせた。
「……会議に出ていただいて、技術的な判断に、その、助言を」
「会議室から、柱の音は聴こえないですが」
「え?」
「音を聴くのが、俺の仕事です。会議は、聴いた結果を渡す場所です。渡すだけなら、紙でも足ります」
所長は、口を開けたまま、固まった。
十年前からこの公社にいる人だ。
報酬を値切られたことは、あっても。
仕事の中身を値切られたことは、なかったのだと思う。
「点検員として、雇ってください」
俺は言った。
「巡回して、聴いて、記録を出す。それが俺のできることの、全部です。肩書は、なんでもいいです。臨時でも、嘱託でも」
「し、しかし灰田さん、世間がそれでは納得を」
「世間は、俺を雇っていないので」
猪狩さんが、横で下を向いた。
肩が、小さく揺れていた。
◇
三十分後、書類はこうなった。
肩書、臨時顧問。
これは所長が「これだけは呑んでくれ」と、ほとんど拝むように残した。
顧問の名前がないと、封鎖現場への入構許可が本部で通らないのだそうだ。
肩書は、鍵の付属品ということで、呑んだ。
職務内容の欄には、俺が言ったとおりの文言が入った。
「市内全ダンジョン設備の巡回、聴音点検、および記録の提出」
市内全、の三文字は、所長が足した。
第七だけでなく、残り二つのダンジョンも聴いてほしい、ということだった。
これは、ありがたかった。
こちらから頼むつもりだった仕事を、向こうの椅子に座ったまま貰えた。
報酬の欄は、点検員の給与規定の準用になった。
四倍の数字を消させるのに、一番時間がかかった。
「最後に、一つだけ、お願いがあります」
「なんなりと」
「受付の鶴見さんが崩落の前に出した閉鎖の進言、文書で残っているはずです。あれを、破棄せずに正式な記録として保存してください。顛末書と、一緒に」
所長の顔が、一瞬、動きを止めた。
「……あの文書は、その、扱いが宙に浮いたままで」
「公社で唯一、崩落の前に、書面で警告した記録です」
俺は言った。
「あれが残っていないと、この公社は、誰も何も言わなかった組織になります。言った人が一人いた、という事実のほうが、公社のためだと思いますが」
所長は、長いあいだ黙っていた。
本部にどう通すかを、頭の中で数えている顔だった。
それから、書類の余白に小さくメモを取った。
「……検討ではなく、保存します。約束します」
◇
帰りに、受付の前を通った。
鶴見さんが、カウンターの中に座っていた。
「灰田さん」
彼女は、引き出しから小さな袋を出して、カウンターに置いた。
名刺の束だった。
「預かってたものです。三十枚……今朝までで、四十六枚になりました。要るなら、渡そうと思って」
「まだ、要らないです」
「じゃあ、まだ預かっておきます」
彼女は袋を引き出しに戻して、それから、新しい入構証をカウンターに置いた。
顔写真の下に、臨時顧問、と印字してあった。
「さっき、発行してきました。……十年前に、職員証を発行したのも私なんですよ。覚えてます?」
「すみません。覚えてないです」
「でしょうね」
鶴見さんは、笑った。
「あのとき灰田さん、写真の顔が硬すぎて、二回撮り直したんですよ。係の人に、力を抜いてくださいって言われて、余計に硬くなって」
そんなことが、あったのか。
俺の十年の一番最初を、この人は俺より正確に持っている。
「今度のは、覚えててください」
入構証を受け取った。
首から下げる紐が、前のより、少しいいものになっていた。
◇
その日の夕方、俺は八日ぶりに、第七の中にいた。
封鎖された見学通路は、非常灯だけで、静かだった。
八百円は、要らなかった。
首から下げた入構証と、猪狩さんから渡された点検口の鍵の束が、あるだけだ。
鍵の束は、十年間使っていたものと、同じ型だった。
手の中の重さで、分かった。
一番奥ではなく、今日は、四番柱の区画まで行けた。
入構の条件は、浅層区画まで。
その下の層は、護衛付きの補修班しか入れない。
入構証の裏に、小さくそう刷ってあった。
柵の外からではなく、四番の柱身の点検口の、真横まで。
結界柱は、深層の基部から浅層の天井まで、全層を貫いて立っている。
柱身に耳を付ければ、基部の音は、柱そのものを伝って上がってくる。
耳を、当てる。
ダクト越しに何百メートルも渡ってきた音ではなく、柱そのものの、生の唸り。
換気塔では途中で削れて消えていた、細い倍音の層が、全部そろって鳴っていた。
鍵というのは、つまり、この層のことだ。
歪みが、はっきり聴こえた。
第三柱の最後の八日間と、同じ種類の音。
まだ浅い。
進みも、遅い。
急げば、間に合う。
それは、いい。
間に合わせるのが、俺の仕事に戻った。
問題は、その先だ。
第三柱は、崩れて、原因ごと瓦礫の下だ。
四番は、まだ立っていて、同じ音を鳴らしている。
つまり、この柱は。
あの歪みの正体に、耳を当てられる、最初の一本だ。
「……なんでこんな音になったのか、教えてもらうからな」
久しぶりに、仕事として、柱に触れた。
黒い胴は、あの日と同じ顔で、低く唸っていた。
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