18年目の引き金
雨の夜から数日後。季節は静かに深まり、夜の空気が肌寒さを帯び始めていた。
その夜、二人は直の部屋でささやかな晩酌をしていた。
アパートに荷物を置いたまま、自然とここで夕飯を食べ、当たり前のように同じ時間を分け合う日々。仁の顔からはかつての悲壮感が消え、35歳らしい穏やかな柔らかさが戻っていた。
「直、グラス空いてるぞ。注ぐよ」
「おう、サンキュ」
仁が手際よく缶ビールを注ぐ姿を、直はソファに肘をつきながらじっと見つめていた。
少し伸びた髪、お酒が入って薄く赤くなった頬、リラックスして緩んだ目元。
高校時代の面影を残しながらも、しなやかな大人になった仁の横顔。
(……限界だな)
直は心の中で静かに呟いた。
傷ついた仁を保護し、居場所を作り、立ち直るのを見守ってきた。親友として、よき理解者として振る舞うことには慣れていたはずだった。
けれど、こうして目の前で無防備に笑う仁を見ていると、胸の奥で18年間眠らせていた熱い塊が、暴れ出しそうになるのを抑えきれなくなっていた。
「……なぁ、仁」
「ん?」
仁がグラスを置いて直を振り返った。その無警戒な瞳と視線がぶつかる。
「お前さ……そろそろ自分のアパートに本格的に戻るつもりなのか?」
直の問いかけに、仁は一瞬ピクッと肩を揺らした。
喉にビールを詰まらせそうになりながら、戸惑ったように視線を泳がせる。
「え……あ、いや。いつまでも直のところに転がり込んでちゃ迷惑だし……荷物も置いたままだから、そろそろちゃんと片付けて向こうで暮らさなきゃなって、思っては……いたんだけど」
仁の声が小さくなっていく。
「迷惑」という言葉を使ったものの、仁の表情には明確な寂しさと躊躇が浮かんでいた。直の部屋の居心地の良さ、直の隣にいる安心感に、仁自身がどれほど救われ、惹かれているか。それを自覚しているからこそ、居座り続ける理由が見つからずに焦っていたのだ。
そんな仁の躊躇いを見た瞬間、直の中で何かがプツリと切れた。
「……嘘つけ」
「え?」
「お前、本当は向こうに帰りたくないんだろ」
直の声は低く、逃げ道を塞ぐように響いた。
いつもの軽やかなトーンではない。直はグラスをテーブルに置くと、ソファの上で仁との距離を詰めた。
「直……?」
圧迫感に息を呑む仁。
直の目が、これまでに見たことがないほど深く、強い色を帯びて仁を見つめていた。
「俺さ……ずっと耐えてたんだよ」
「な、何を……」
「お前が傷ついてて、弱ってたから。カッコいい親友のフリして、踏み込まないように必死で理性保ってた」
直の手が伸び、仁の少し冷えた手をぎゅっと包み込んだ。
大きな手のひらから伝わってくる、熱いほどの体温と微かな震え。
「でもさ……もう無理だわ。お前が目の前でそんな顔して、俺の隣に当たり前にいて……それで『迷惑だから出て行く』なんて言われたら、俺、頭おかしくなりそうなんだよ」
「直、お前……何を言って——」
「卒業式の日さ」
直が仁の言葉を遮った。
あの日、夕暮れの教室で途切れた記憶が、直の口から直接手渡される。
「お前が『これからも良い友達で』って言いかけた時、俺、笑って誤魔化しただろ。『そういう重いの柄じゃない』って」
仁は目を見開いた。忘れるはずもない、二人の関係が止まってしまったあの日。
「あれさ……冷たく突き放したんじゃないんだよ。お前があまりにも真っ直ぐな目で『友達』なんて言うからさ。……その場で仁を抱きしめて、『友達なんかになりたくない、俺はお前が好きだ』って叫び出しそうになったのを、必死で抑えて逃げたんだよ」
「……っ!?」
「それから何年も経って……共通の知人から『仁が結婚した』って聞いた時の絶望、お前分かるか?」
直の瞳に、痛切な影が差した。
「息が止まるかと思ったよ。あぁ、仁は俺の届かないところへ行っちゃったんだなって。自分が身を引いて、お前の幸せを遠くから祈るしかないんだって……胸が引きちぎられる思いで、自分を納得させたんだ」
直の口から漏れ出た、あまりにも重く切ない18年間の感情。
結婚の知らせを聞いた時の直の痛みを知り、仁の胸に激しいショックと愛おしさが打ち寄せた。
「でもさ……35歳になって、離婚してボロボロになって戻ってきたお前を見ても……やっぱりダメだった。俺はお前が好きだ、仁。親友としてじゃなく、一人の男として……ずっとお前を愛してる」
直の手が強く仁の手に重ねられる。
その言葉、その温度、その眼差しを全身で受け止めた瞬間——仁の頭の中で、止まっていたパズルのピースが一気にはまり込んだ。
(あぁ……そうだったんだ)
仁の目から、ぽろぽろと涙が溢れ出した。
なぜ元妻の前でいくら取り繕っても、心がどこか冷めていたのか。
なぜ「良い夫」になろうと背伸びをすればするほど、息苦しくて仕方がなかったのか。
なぜ、18年ぶりに直と再会したあの瞬間から、自分の心がこれほどまでに穏やかで、満たされていたのか。
自分はずっと、直を求めていたのだ。
友情や親愛という綺麗な言葉で蓋をして、自分自身ですら気づかないように隠していたけれど、自分の心が真に安らぎ、愛を感じられる場所は、17歳の頃からずっと、直の隣だけだったのだと。
「……直……」
仁は涙で濡れた顔を上げ、直の手をぎゅっと握り返した。
「俺……バカだな。ずっと『親友』だから居心地が良いんだと思ってた。でも、違ったんだ……俺も、直だから……直の隣にいたかったんだ」
18年間のすれ違いと誤解が溶け去り、二人の本当の気持ちが重なり合った瞬間だった。




