これからの余白と、二人の名前
「……泣くなよ、仁」
直の手が伸び、仁の頬をつたう涙を親指で優しく拭った。
その手のひらは温かく、どこまでも愛おしそうに仁の顔を包み込んでいる。
「泣いてなんか……っ」
仁は拭われても溢れてくる涙を隠すように、自分から直の胸へと飛び込んだ。
がっしりとした直の体躯、シャツ越しに伝わる力強い心臓の鼓動。
17歳の頃からずっと憧れ、救われ、けれど直の優しさに甘えすぎてはいけないと自分に言い聞かせてきた男の匂いが、仁の全身を包み込む。
「直……俺、ずっと怖かったんだ。また誰かを好きになって、期待して、カッコつけて自爆するのが……」
「うん」
「でも、直の前だと……俺、全然カッコつけられない。ダサくて、不器用で、一人じゃ何もできない俺のままでいられる……。それが、すごく嬉しかったんだ」
直は仁の頭を優しく撫で、抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。
「カッコなんてつけなくていいんだよ。俺が好きになったのは、そういう愚直で不器用な仁なんだから」
「……直」
「これからはさ、一人で背負うな。カッコ悪いところも、弱音も、全部俺に見せろ。二人で分かち合えばいいんだから」
直が顔を離し、仁の目をまっすぐに見つめた。
二人の距離がゼロになり、重ねられた唇から伝わってくるのは、18年分の切なさと、これから始まる未来への温かな約束だった。
*
季節は巡り、心地よい春の風が吹く頃。
仁は正式に自分のアパートを解約し、直のマンションへ完全に引っ越してきた。
「半同居」だった頃とは違い、部屋には仁の服や本、お気に入りのマグカップが当たり前のように並んでいる。玄関には二足の靴が寄り添うように並び、一つの家としてしっくりと馴染んでいた。
休日。柔らかい陽光が差し込むリビングで、仁はソファに深々と腰掛け、本をめくっていた。
キッチンからは、直がコーヒーを淹れる心地よい音が聞こえてくる。
「仁、コーヒー淹れたぞ」
「ありがとう、直」
カップを受け取り、一口すする。香ばしい湯気が二人の間に立ち上る。
「なぁ、仁。来週の土曜、車出してどっか遠出するか? 海の方とかさ」
「いいね。あ、でも……途中で美味しそうなカフェがあったら、寄り道したいな」
「いいぞ。予定なんて詰め込まないで、あてもなく走ろう」
直が隣に腰掛け、自然な動作で仁の肩に手を回した。仁もその体温に身を預け、小さく微笑む。
かつての仁は、休日のスケジュールすら「完璧な夫」であろうとして無理に埋めようとしていた。けれど今の仁の心には、直が教えてくれた「ゆとり」がある。
完璧じゃなくていい。立ち止まってもいい。
無駄に見える時間や、何もしない隙間の中にこそ、かけがえのない幸せが宿っているのだと、今の仁は知っていた。
「……直」
「ん?」
「俺、今……すごく幸せだ」
ポツリと漏らされた言葉に、直は一瞬驚いたように目を見開くと、やがて心底愛おしそうな笑顔を浮かべた。
「……俺もだよ。18年待った甲斐があった」
直の唇が、仁の額に優しく落とされる。
遠回りをした18年間だった。
傷つき、すれ違い、互いに痛みを抱えて生きてきた18年間の道のり。
けれど、あの暗闇も、あのすれ違いも、すべてはこの場所に辿り着くための必要な時間だったのだと、今なら思える。
二人の生活には、もう焦りも、虚飾も、張り詰めた緊張もない。
たっぷりの「心のゆとり」と、互いへの深い愛おしさだけを抱えて、二人はゆっくりと、歩みを進めていく。




