ひとつの傘と、二人の余白
自分のアパートは借りたままだった。
荷物もそこに置いてあるし、家賃だって払っている。けれど、仁がその部屋で夜を明かすことは、ほとんどなくなっていた。
仕事が終われば、当たり前のように直のマンションへと向かう。
「今日、夕飯どうする?」という短文のLINE。直から「作ったから早く帰ってこい」と返ってくる日常。
完全な同居という形をとるには、離婚したばかりの仁にとってまだ心の準備が必要だった。けれど、直もそれを急かすことはなく、「いつでも帰ってきていい場所」として、ただ自然に仁の居場所を開けておいてくれたのだ。
実家や親族からの連絡を絶ってから、仁の表情には少しずつ柔らかさが戻っていた。
*
ある夜、二人は近所のスーパーへ買い出しに出かけた。
帰り道、予報にない小雨がぱらぱらと降り始める。
直は慣れた手つきで折りたたみ傘を一本開くと、「入れよ」と仁の肩を引き寄せた。
「……狭くないか?」
「いいから入れって。お前、病み上がりなんだから濡れんな」
肩が触れ合うほどの距離。
一つの傘の下、肩をすぼめて歩く夜道。直の体温と、ほのかに香る洗剤の匂いが雨の匂いに混ざって伝わってくる。
「……なんかさ」
仁はポツリと呟いた。
「こうやって誰かと並んで、肩の力を抜いて歩くの……すごく久しぶりな気がする」
「そうか?」
「うん。結婚してた時もさ……どこかでずっと『しっかりしなきゃ』って気を張り詰めてて。カッコ悪いところは見せられないし、弱音も吐いちゃいけないって、ずっと背伸びして踏ん張ってたから」
直は足を緩め、隣を歩く仁の顔を覗き込んだ。
「今はもう、背伸びなんてしなくていいんだよ」
街灯の光に照らされた直の瞳は、吸い込まれそうなほど優しかった。
「カッコ悪いところも、ダサいところも、全部見せたっていい。……俺が横にいるんだからさ」
「……直」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
親友としての温かさ。けれど、それだけではない何かが、仁の胸の中で静かに、けれど確実に膨らんでいた。
——こいつの前でなら、どんなに情けない自分でもいられる。
——ずっと、この隣にいたい。
それがただの「依存」ではないことに、仁は気づき始めていた。
一人の男として、直という存在を愛おしく思っている自分に。
一方の直もまた、自分の差し出した傘の下で少し照れくさそうに微笑む仁を見つめながら、拳をそっと握りしめていた。
18年間、胸の底に封印し続けてきた想い。
高校の卒業式の日、「良い友達」と言われそうになって思わず言葉を遮って逃げ出した、あの日の苦い恋心。
(……焦るな、俺)
直は心の中で自分に言い聞かせた。
仁は今、ようやく長い傷から立ち直り始めたばかりだ。ここで自分の欲を出して、仁を困らせるわけにはいかない。
「……ほら、雨強くなってきた。走るぞ」
「え、さっき走らなくていいって言ったじゃん!」
「雨は別だろ!」
直がおかしくなって笑い、仁も思わず声をあげて笑った。
夜の雨の中、一つの傘を傾け合いながら笑い合う二人。
互いへの密やかな想いを抱えたまま、二人の距離は少しずつ、けれど確実に縮まっていた。




