大人たちの「ゆとり」と、直の18年間
直の部屋で過ごすようになって、数日が過ぎた。
昼間は仕事や自分のアパートで片付けを少しずつ進め、夜になると直の部屋に身を寄せる。そんな日々の中で、仁の固く閉ざされていた心は、氷が溶けるように少しずつ柔らかさを取り戻していった。
直の部屋には、いつも静かな時間が流れていた。
整えられた観葉植物、柔らかな照明、そして丁寧に淹れられたコーヒーの香り。
そこは、周囲からの非難や罪悪感に追われていた仁にとって、初めて「安心して息が吸える場所」だった。
「……なぁ、直」
ある夜、夕食を終えて並んで温かいお茶を飲んでいた時、仁はふと疑問を口にした。
「直ってさ、高校の時も今も、すごく大人に見えるよな。仕事も上手くいってるみたいだし、誰に対してもブレなくて……昔から頼もしかったけど、辛いこととか挫折したことなんてないだろ?」
仁からすれば、素直な羨望だった。自分のように不器用で泥をかぶるような生き方とは違い、直はいつだって周囲を巻き込みながら、堂々と自分の道を歩んでいるように見えていたからだ。
だが、仁の言葉を聞いた直は、一瞬だけ驚いたように目を見開くと、やがて苦笑混じりの深い溜め息を漏らした。
「……バカ言え。俺が挫折してないわけないだろ」
直は湯気の立つカップをテーブルに置くと、ソファの背もたれに深く体を預け、どこか遠い目をした。
「俺さ、20代後半の頃、本気で打ちのめされたことがあるんだ」
「直が……?」
仁が思いもよらなかった言葉に、息を呑む。
「信頼できる仲間と一緒に、あるプロジェクトの立て直しに挑んでさ。必死だったよ。みんなで連日遅くまで話し合って、泥くさく足動かして、絶対にみんなで守り切ろうって突っ走った」
直の低い声が、静かな部屋に響く。
「でもさ……大人の社会って、情熱や熱量だけじゃどうにもならない壁があるんだよ。競合の嫌がらせとか、資金の限界とか……結局、力及ばずでそのプロジェクトは潰れて、会社も倒産した」
「……そんなことが」
「悔しかったよ。一人で抱え込まずに仲間と手を取り合って全力尽くしたって、届かない現実があるんだって知った。自分の無力さに、吐くほど落ち込んだよ」
直は自嘲気味に笑うと、仁の顔をまっすぐに見つめた。
「そん時に思い知ったんだ。目の前の結果を100点満点にすることだけが全てじゃないんだってな。社会の壁にぶつかって転んだとしても、そこでボロボロになった自分や仲間を責め続ける必要はない。どこかに『心のゆとり』を持ってさ、ダメならダメで、生きてさえいればまたやり直せるっていう隙間を作っておかなきゃダメなんだって」
「……」
「結果が出せなくても、カッコ悪く失敗してもいい。人生に少しのゆとりと逃げ道を残しておくこと。独立して今の仕事を始めてからは、それだけをずっと大事にしてきたんだよ」
直はそう言って、優しく目を細めた。
「だからさ、仁。お前が今、何一つ悪くないのに自分を責めてボロボロになってるのを見ると……『そんなに自分を追い詰めるなよ』って言いたくなるんだ。お前は少し、真面目すぎた。今はただ、ここでゆっくり心を休めて、ゆとりを取り戻せばいいんだよ」
「……直……」
完璧に見えていた直の、人知れぬ重い挫折と、大人の社会的現実を乗り越えて手に入れたしなやかさ。
自分とは違う葛藤を知り、痛みを経て今の穏やかさを手に入れた大人だからこそ紡げるその温かい言葉が、仁の傷ついた心にじんと染み込んでいく。
自分だけが苦しんでいたわけじゃなかった。
目の前にいる直は、自分を救ってくれる都合の良い「ヒーロー」なんかじゃない。同じように壁にぶつかり、自分の限界と向き合いながら一生懸命に35歳を生きてきた、一人の等身大の男性なのだ。
(俺は……直のこの優しさに、どれだけ救われてるんだろう)
直に対する単なる「親友への甘え」が、尊敬と、そして自分でもまだ名付けようのない強い愛おしさへと変わっていくのを、仁は胸の奥で静かに感じていた。




