思い出の「冒険の森」
住所を送信してから、どれくらいの時間が経っただろうか。
遠くで響いていた雷鳴も次第に遠ざかり、部屋にはただ激しい雨音だけが打ちつけていた。
玄関のチャイムが激しく鳴ったのは、仁が膝を抱えたまま動けなくなっていた時だった。
「仁! 開けてくれ、仁!」
扉の向こうから聞こえる、少し切羽詰まった直の声。
仁は震える足で立ち上がり、鍵を外してドアを開けた。
そこに立っていた直は、肩や髪を雨でびしょ濡れにしていた。傘もそこそこに走ってきたのだろう、息を荒らしながら仁の顔を視線で射抜く。
「……よかった。無事だった」
直は安堵したように息を吐くと、玄関に上がり込み、濡れた上着を脱ぐのも忘れて仁の肩をがっしりと掴んだ。
そのまま部屋を見渡す。ダンボールが積み上がっただけの殺風景な空間と、やつれきった仁の姿。直の表情が、切なさで歪む。
「お前……こんなところで、ずっと一人で耐えてたのか?」
「あ……ごめん、直。雨なのに……こんな遅くに……」
謝ろうとする仁の言葉を遮るように、直は仁をそのまま自分の車に乗せ、自分のマンションへと連れ帰った。
拒絶する余裕すら仁には残っていなかった。
*
直の部屋は、温かい明かりとほのかなコーヒーの香りに包まれていた。
温かいタオルで体を拭かれ、温かいマグカップを両手で握らされた仁は、ソファの深みで小さくなっていた。
「……俺さ、離婚したんだ」
湯気の向こうで、仁はぽつり、ぽつりと語り始めた。
「妻を守れなかった。俺が不甲斐なくて、甲斐性がなくて……みんなに迷惑かけて、最後は呆れられてさ。結局、俺が全部駄目にしたんだ」
自分を責める言葉ばかりを吐き出す仁。
「俺は昔からそうだ。一人でカッコつけて、全部抱え込もうとして、結局自爆して誰にも相手にされなくなる。35歳になっても、俺は何一つ変わってないんだ……」
自虐的な笑みを浮かべる仁を、直は向かいの椅子に座り、静かに見つめていた。
そして、責めるでも慰めるでもなく、ふっと口元を和らげた。
「……お前、ほんと変わんねえな」
「え……?」
「忘れたわけないよな。高校二年の秋……あの文化祭の前日のこと」
直からその言葉が出た瞬間、仁の胸がギュッと締め付けられた。
忘れるはずがなかった。
仁にとっても、あの夜は人生の中でずっと消えない、特別で、切ない記憶だったのだから。
——文化祭の前日。
教室全体に作った体験型アトラクション「冒険の森」。そのメインである巨大な木の仕掛けが派手に崩れ落ち、殺伐とした空気が流れたあの夕方。
誰のせいでもない事故だった。けれど、疲れ切っていたクラスメイトたちは「誰かのせい」にしなければ収まりがつかなくなっていた。
ギスギスとお互いを疑い合う最悪の雰囲気に耐えかねて、仁は『俺が足を引っ掛けちゃったんだ! 後は一人で直すからみんなは帰って!』と嘘をついた。
みんなが気まずそうに去っていった後、暗い教室で一人、接着剤とテープを手に黙々と作業をした。
爪の中に接着剤が入り込み、指がボロボロになりながら、自分の不器用さに泣きそうになっていたあの時間。
そこに、ガラッと扉を開けて入ってきたのが直だった。
『うわー豪快にやっちゃったねえ! 冒険の森が巨大なゴミ捨て場になってんじゃん』
いつものお調子者の顔で笑いながら入ってきた直は、仁が『関係ないだろ、帰れよ!』と怒鳴っても、全く気にせず落ちていたテープを拾い上げたのだ。
『やーだね。こんなでかい森、一人で直せるわけないだろ。俺、木を支える役やるから、仁はテープ貼れよ』
仁が嘘をついていることなんて全部お見通しのような顔で。でも「お前は悪くない」なんて言葉で立ち入ることもせず、ただ黙って、夜遅くまで倒れそうなベニヤの木を支え続けてくれた直の手の温もり。
仁にとってあの夜は、人生で初めて「一人で泥をかぶった自分を、何も言わずに受け止めてくれた人がいた」と知った、忘れられない原点だった。
「……忘れるわけ、ないだろ」
仁の声が震えた。マグカップを握る手が強く力む。
「あの夜のこと……俺、一度だって忘れたことないよ。直が……文句も言わずにずっと木を支えてくれたこと……」
直は優しく目を細め、仁を見つめた。
「あの夜もさ、お前は『俺の不注意だ』って言いながら、一人で泣きそうな顔して作業してただろ。……仁、お前は昔から、自分が傷ついてでも周りを守ろうとしちゃうんだよ。35歳になっても変わってないのは、お前のそのカッコ悪いほどの『優しさ』の方だ」
「直……っ」
「俺は知ってるよ。お前がただのバカでも、自分勝手な奴でもないことくらい。……あの時から、ずっと知ってる」
まっすぐな直の言葉が、固く閉ざしていた仁の心を深く揺さぶる。
自分を「失敗作」だと責め続けていた心に、あの暗い教室で二人で作業した夜の温もりが鮮やかによみがえる。
世間がどう言おうと、一番分かってほしい人が、昔と変わらない目で自分を信じてくれている。
「っ……う、ぁ……」
仁の目から、溢れ出た涙がぽたぽたとマグカップの中に落ちた。
仁は両手で顔を覆い、子供のように声を漏らして泣いた。直は何も言わず、ただ仁が泣き止むまで、静かにその隣に寄り添い続けていた。




