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嵐の夜の電話

同級会から戻ってからの数日間、仁の記憶はどこか靄(もや)がかかったように曖昧だった。


朝起きて、機械的に顔を洗い、部屋の片隅に積み上げられた引っ越し用のダンボールを眺める。

一人暮らしを始めるために借りた小さなアパートの部屋は、あまりにも静かで、冷たかった。


『仁、本当はなにがあったの?』

『あんなに気立ての良さそうな奥さんが、理由もなく出ていくわけないでしょう』


実家の母親からかかってきた電話の言葉が、耳の奥で何度もリフレインする。

息子の言い分も聞かず、世間体と元妻の泣き落としを鵜呑みにした家族からの落胆。仁が何を言っても、あるいは何も言わないからこそ、周囲は好き勝手な推測で仁を「悪者」に仕立て上げていった。


(俺が悪いんだ。俺が……うまくやれなかったから)


そう自分に言い聞かせなければ、心が壊れてしまいそうだった。

本当の理由——元妻の不貞や身勝手な振る舞いを明かせば、彼女の親族とも泥沼の争いになり、自分もまた憎しみの渦に飲み込まれてしまう。

だから泥を被った。自分が悪者になれば、全ては丸く収まるはずだった。


なのに、なぜこんなに息が苦しいのだろう。


窓の外では、季節外れの激しい雨が打ちつけていた。

雷鳴が遠くで轟き、部屋の明かりが瞬く。


仁は暗闇の中、パイプ椅子の上に膝を抱えて座り込んでいた。

限界だった。

心も、体も、すっかり擦り切れて、自分が何のために息をしているのかすら分からない。

誰かに助けを求めたい。けれど、世界中の誰も自分の言葉なんて信じてくれない。自分が悪者なのだから。


その時、ポケットの中でカサリと音がした。


無意識に手を差し込むと、指先に触れたのは小さな紙切れだった。

あの日、ホテルのエレベーターホールで直が無理やり掌に押し付けてきた、あのメモ。


『頼むから連絡しろ。俺は待ってる』


滲んだボールペンの文字が、頭の中に直接語りかけてくるようだった。


(直……)


脳裏に浮かぶのは、高校時代の記憶。

誰も自分の言葉に耳を傾けず、クラス中から冷ややかな視線を向けられていたあの頃。

みんなが離れていく中で、直だけは変わらない顔で隣にいてくれた。何も聞かず、ただ一緒に弁当を食べ、くだらない話で笑わせてくれた。


(でも……今の俺が電話したら、直に迷惑がかかるんじゃないか?)

(また『カッコつけて自爆した惨めな奴』だって、呆れられるんじゃないか?)


恐怖で手が震える。

一度は拒絶した手。今さら自分から縋るなんて、身勝手すぎるのではないか。


雷鳴が一段と大きく響き、部屋が一瞬、白い光に包まれた。

孤独の深淵に呑み込まれそうになった瞬間、仁の指先が勝手に動き出していた。


ポケットからメモを取り出し、震える手でスマートフォンの画面に十桁の数字を打ち込んでいく。

一文字打つたびに、心臓が痛いほど脈打った。


発信ボタンを押す。


耳に当てた受話口から、規則的な効果音が流れる。

『ツーーーー……ツーーーー……』


(出ないでくれ……いや、出てくれ……)


矛盾した祈りが胸を焦がす。

三回目のコールが鳴り響いた時、不意に音が途切れた。


『……はい』


低く、けれどどこか聞き覚えのある声。間違いない、直だ。


仁は息を呑み、固まった。喉がキュッと縮こまり、声が出ない。

沈黙が流れる。切られるかと思ったその時、受話口の向こうから、静かだが確かな声が届いた。


『……仁か?』


「……ッ」


名前を呼ばれた瞬間、仁の目から涙が溢れ出た。

何も名乗っていないのに、ただの無言の電話だったのに、直は一瞬で自分だと気づいてくれたのだ。


「……あ、す、直……俺……」


声が震えて、うまく言葉にならない。

ごめんなさい、間違えた、やっぱり何でもない。そう言って電話を切ろうとした仁の迷いを察したように、直が遮った。


『今、どこにいる』


「え……?」


『家か? 一人なのか?』


「あ……うん。新しいアパートに……」


受話口の向こうで、ガサゴソと上着を羽織るような衣擦れの音が聞こえた。

そして、車の鍵を掴む金属音が響く。


『住所、LINEで送れ。今から行く』


「え、駄目だよ! こんな大雨だし、夜遅いし……それに俺、直に嫌な言い方して——」


『いいから送れ』


直の声は、驚くほど強かった。けれど、その奥には包み込むような温もりが溢れていた。


『お前が電話くれたんだ。行くに決まってんだろ。……待ってろよ、仁』


電話が切れた。

静まり返った部屋で、仁はスマートフォンを胸に抱きしめたまま、ボロボロと涙をこぼした。


18年間の空白なんて、まるでなかったかのように。

あの頃と同じまっすぐな声で自分を呼んでくれた男の元へ、仁は絞り出すようにアパートの住所を送信した。

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