冷たい同級会と、薬指の跡
きらびやかなホテルの宴会場に充満する、刺さるような笑い声とグラスの触れ合う音。
仁はその喧騒から逃れるように、壁際に置かれた小さな丸テーブルにポツンと立ち尽くしていた。
「——でさ、うちの上の子が今年から小学生だろ? 習い事の送迎だけでもう大変でさぁ!」
「分かる! うちもローン組んでマイホーム建てたばかりだから、マジで休みなしだよ」
35歳。人生の折り返し地点とも言えるこの年齢になれば、集まった同級生たちの話題は自ずと「家族」や「家」、あるいは「仕事の肩書」になる。
誰もがそれぞれの大人の責任を背負い、それを誇らしげに語り合っていた。
仁は、手に持ったウーロン茶のグラスを固く握りしめた。
冷えたガラスの結露が、手のひらを伝って垂れる。
(……来るんじゃなかった)
心の中で、何度目になるか分からない後悔が渦巻いた。
離婚届を提出してから、まだ一週間も経っていない。
妻の身勝手な振る舞いや不貞が原因だった。だが、仁はそれを誰にも言わなかった。「男として彼女を守れなかった自分が悪い」「彼女の今後の人生まで壊したくない」と、すべての責任を一人で被る道を選んだのだ。
その結果、周囲や親族からは「妻を追い詰めた冷たい夫」「甲斐性のない男」と非難され、味方は誰一人いなくなった。
自尊心はボロボロに擦り切れ、自分が生きている意味すら分からなくなるほどの暗闇。
そんな中で届いた同級会の案内状に、愚かにも縋ってしまったのだ。ここに来れば、まだ何も背負っていなかった頃の自分に戻れるのではないか、と。
だが現実は甘くなかった。
幸せそうな昔馴染みたちの輪に入る資格なんて、今の自分には一ミリも残っていなかった。
「あれ? 仁じゃん! ひさしぶりー!」
不意に声をかけられ、仁は心臓が跳ね上がるのを感じた。
酔った勢いの同級生が数人、仁の元へやってくる。
「お前、相変わらず真面目そうな顔してんなあ。今どこで働いてんだっけ?」
「そういえば仁って結婚してたよな? 奥さん元気? 子どもは?」
無邪気な、だからこそナイフのように鋭い質問が仁の胸をえぐる。
「あ、うん……仕事は、まあ……。家庭の方は、その……」
声が上手く出ない。喉が固まり、言い訳の言葉すら紡げなかった。
引きつった笑みを浮かべる仁の左手。その薬指の付け根には、長年つけていた指輪を外したばかりの、うっすらと白い「跡」が残っていた。
相手の視線がそこに落ちた瞬間、気まずい沈黙が流れる。
「あ……そ、そうなんだ。まあ、いろいろあるよな!」
「じゃ、俺たちあっちのグループ行ってくるわ!」
引き潮のように去っていく同級生たち。
残されたのは、ただ惨めで、憐れまれている自分だけだった。
(帰ろう。もう、消えてしまいたい)
耐えきれなくなった仁が、グラスをテーブルに置いて背を向けた、その時だった。
「——仁?」
低く、落ち着いた声が、耳に届いた。
振り向くと、そこに一人の男が立っていた。
少し背が伸び、肩幅も大人らしくがっしりとしている。昔のお調子者だった面影を残しつつも、どこか凛とした佇まいを纏った男。
「……直」
18年ぶりの再会だった。
高校時代、いつだって自分の隣にいてくれた男、直。
直は仁の顔をじっと見つめると、その視線をゆっくりと仁の左手へと落とした。薬指に残る白い痕跡。そして、痩せこけた仁の頬と、光を失った瞳。
直の眉間が、かすかに痛ましげに寄った。
「仁、お前……何かあったのか? 痩せたし、それに——」
直の手が、心配そうに仁の肩へと伸びてくる。
その手から伝わる温もりが、今の仁には痛すぎた。
(見られたくない)
世界中で、一番カッコ悪い姿を。
一人で勝手に自爆して、惨めに孤立しているこんな姿を、直にだけは見られたくなかった。
昔の記憶が脳裏をよぎる。高校時代もそうだった。自分一人で抱え込んで泥をかぶった時、直だけが自分の不器用さを見抜いていた。
今、直に優しくされたら、崩れてしまいそうだった。惨めに泣き出して、見苦しく縋ってしまうかもしれない。それが恐ろしかった。
「……関係ないだろ」
仁は、自分でも驚くほど冷たい声を出していた。
差し出された直の手を、小さく拒絶するように身を引く。
「え?」
「直には関係ないよ。……ほっといてくれ」
言いたくもない拒絶の言葉。
傷ついたように目を見開く直の顔を見るのが怖くて、仁は視線を伏せ、逃げるように踵を返した。
「あ、おい! 仁!」
後ろから呼ぶ直の焦ったような声が聞こえる。
人混みを押し分け、宴会場を出てエレベーターホールへと向かう仁。背後から足音が急速に近づいてきた。
「待てよ、仁!」
追いついた直が、仁の腕を強引に掴む。
引き留められた仁は、すがりつくような思いとプライドが激しくぶつかり合い、ただ固まって下を向くことしかできない。
直はそんな仁の横顔を痛ましそうに見つめると、胸ポケットから手帳とボールペンを引っ張り出した。ページを乱暴に破り、壁に用紙を押し当てながら、手元を震わせて何かを猛烈な勢いで書き走らせる。
「おい、直、なにを——」
戸惑う仁の返事も待たず、直は書き殴った紙切れを小さく折りたたむと、仁の手を無理やり開かせて、その掌にギュッと押し付けた。
「お前が今、何も話したくないなら無理には聞かない。……でもな、絶対に一人で抱え込むな」
直の指先が、仁の手を強く握りしめる。
熱いくらいの体温が伝わってきた。
「それ、俺の携帯の番号と今の連絡先。頼むから……何かあったら、いや、何もなくてもいいから電話しろ。な?」
真剣すぎる直の瞳に射抜かれ、仁は息を飲んだ。
直はゆっくりと仁の手を放すと、少しだけ寂しそうに口元を緩めた。
「じゃあな。体、大事にしろよ」
直はそれ以上追ってこず、静かに背を向けて宴会場へと戻っていった。
一人残された静かなエレベーターホールで、仁は掌に残された紙切れを見つめた。
そこには、乱暴だがまっすぐな字で十桁の電話番号と、『頼むから連絡しろ。俺は待ってる』という短い一言が添えられていた。
小さく折られたその紙をポケットの奥深くにねじ込み、仁は逃げるように夜の街へと消えていった。




