第9章:低気圧の髪
名前を呼び合えるようになったからこそ、好きな人には少しでもきれいな自分を見せたい。
けれど六月の湿気は、優菜の髪も眼鏡も、そんな乙女心まで容赦なく乱していきます。
六月。東京は、巨大な加湿器の中に放り込まれたみたいな湿気に包まれていた。
私の見た目の調子は、人生最悪の数値を叩き出し続けている。
(……最悪。もう本当に最悪。私の天敵は、厳しい上司でも終わらない仕事でもなく、この湿気よ)
東海道線のいつもの車両、ドア横のいつもの場所で、私は死ぬほど後悔していた。
今朝アイロンを通したはずの髪は、駅に着く頃には収拾がつかないほど広がり、吐く息で眼鏡は断続的に曇り続けている。視界も、私の乙女心も、透明度はほぼゼロだ。
(……こんな姿、見られたくない)
名前を呼び合うようになったからこそ、余計にそう思う。
知らない人の前ならまだしも、今の私は、よりによって拓也さんの前で「自分磨きに失敗した朝の成れの果て」みたいな顔をしている。
ドアが開く。
サックスブルーのシャツに身を包んだ拓也さんが、いつものリズムで乗り込んできた。
彼は私を一目見ると、いつものように自分の体で「箱」を作ってくれる。
「……おはようございます、朝比奈さん」
「……おはよふございまふ、拓也さん」
言った瞬間、自分で絶望した。
(……噛んだ!)
しかも返した瞬間、自分の眼鏡がさらに白く曇った。
必死に指先で眼鏡を直し、髪を抑えつけるけれど、広がる髪はまるで何かの意思を持っているみたいに自由奔放だった。
その時、拓也さんがふいに一歩、いつもより少しだけ深く踏み込んできた。
「あの、朝比奈さん」
「は、はいっ!」
拓也さんは何かを言いかけて、私の髪を見た。
それから、一度だけ黙った。
(……何。今の沈黙、何)
(『朝比奈さん、今日の頭、すごいことになってますね』って言おうとした?)
(やめて。お願い。そこには触れないで)
胸の内側だけが勝手にばたばたしている。
けれど拓也さんは、結局なにも言わなかった。
その代わりみたいに、混雑する車内で不機嫌そうなサラリーマンのバッグが私の肩をかすめそうになるたび、彼の腕が確実にその衝撃を遮っていく。
(……言わないんだ)
髪のことも、曇った眼鏡のことも。
見えていないわけじゃないのに、あえてそこに触れない。
その沈黙が少しだけありがたくて、少しだけ苦しい。
私は本当は、昨日見たテレビの話とか、駅ナカの新しい店の話とか、そういうどうでもいいことを喋ってみたい。
でも今の私は、髪と眼鏡と湿気にメンタルを全損させられた女でしかなかった。
「……無理、しないでください」
ふいに降ってきた、低い声。
「え……?」
「気圧、低いので。無理して喋らなくても大丈夫です」
(……そっち!?)
喋りたいのに喋れない私の苦悩を、「低気圧による体調不良」と解釈して、あえての無言の気遣い。
違うんです、拓也さん。私は元気なんです。ただ、乙女心がこの湿気に負けてるだけなんです……。
けれど、そんな言い訳をする勇気もなくて、私は曇ったレンズの向こうで何度か瞬きをした。
(優しすぎる。それ、惚れないほうが無理でしょ)
ふいに、車両が大きく揺れた。
ガタン、と体が彼の方へ倒れそうになった、その瞬間。
彼の大きな手が、私の二の腕をそっと支えた。
一拍。
本当に、一拍だけだった。
なのに、その一拍がやけに長く感じられた。
指先の圧は強くないのに、そこだけ鮮明で、シャツ越しの熱が二の腕に残る。
(……っ)
離れたのに、熱だけが残った。
私が息を詰めたまま固まっていると、拓也さんはほんのわずかに視線を落として、静かに手を離した。
「……危ないですから。掴まっててください」
その言い方があまりにも真面目で、いつも通りで、だから余計にずるい。
まるで今の接触に、彼だけが気づいていないみたいで。そんなわけないのに、そう思いたくなるくらい自然だった。
(……心臓、無理)
私は、熱くなった顔を隠すみたいに、また眼鏡のつるを直した。
六月の風は止み、車内には誰かが持ち込んだ濡れた傘の匂いと、雨の手前の少しだけ甘い紫陽花の香りが混ざり合っている。
(……好きすぎて、困る)
電車が、東京駅のホームへ滑り込んでいく。
窓に映る自分は、髪が膨らんで、眼鏡が曇って、たぶん全然かっこよくない。
それでも、その隣にいる彼の横顔だけは、どうしようもなく好きだと思った。
次こそは。
ちゃんと整えた髪で、曇りのない眼鏡で、あなたと笑い合いたい。
――だから湿気、お願い。今日はもう、これ以上、私をいじめないで。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
髪はまとまらず、眼鏡は曇り、挨拶まで噛んでしまった優菜。
完璧とは程遠い朝でしたが、拓也は彼女の見た目を笑うことなく、いつも通り静かに守ってくれました。
そして、揺れた車内で触れた手の温度に、優菜はついに自分の気持ちを認めます。
次話「台風の停電」では、電車の止まった嵐の夜、二人が初めていつもの通勤電車を離れ、同じ帰り道を過ごします。




