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冬のレモン、キャメルの背中 ~満員電車で私を守ってくれた十九歳上の彼に、ゆっくり恋をしました~  作者: ちょこまろ


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第10章:台風の停電

観測史上最大級の台風によって、東京の電車は止まり、街は暗闇と混乱に包まれます。


一人で帰れず、不安を隠していた優菜の前に現れたのは、いつものように彼女を見つけてくれる拓也でした。


今回は、満員電車ではない場所で、二人が初めて同じ帰り道を過ごすお話です。

 七月。観測史上最大級という言葉を引き連れてきた台風は、金曜日の東京を、文字どおり止めてしまった。


 丸の内のビル群は断続的な停電で瞬きを繰り返し、駅の電光掲示板には「運転見合わせ」の赤い文字が並んでいる。改札付近は帰宅難民となった人たちで溢れかえり、蒸し暑さと焦燥が渦を巻いていた。


(……詰んだ)


 優菜は薄暗い駅の柱の影で、スマートフォンの充電残量と睨み合っていた。

 タクシー乗り場は絶望的な長蛇の列。雨はアスファルトを砕くみたいな勢いで叩きつけ、雷鳴がビルの谷間に響くたび、周囲から小さな悲鳴が上がる。


(……怖い)


 その一言を、口には出せなかった。

 いい大人が、ただの悪天候に怯えているなんて。そう思おうとするのに、暗さと閉塞感のせいで呼吸が浅くなる。

 ぎゅっとバッグのストラップを握りしめた、その時だった。


「――朝比奈さん」


 澱んだ空気を切り裂くように、聞き慣れた声が届いた。


 振り返ると、そこにはシャツの袖を少しだけ捲り上げた拓也が立っていた。湿気で少し乱れた前髪が、かえって彼の目元の鋭さを際立たせている。


「あ……拓也さん」

「やっぱり、ここにいましたか。電車、当分動きそうにないですね」


 彼は優菜の隣に立つと、自然に周囲の喧騒から隠すみたいに、いつもの「場所」を作ってくれた。非常灯の薄い光だけが頼りの構内で、彼の体温だけが妙に近い。


「あの、もしよかったらなんですけど」


 拓也が少しだけ言い淀む。


「うちの会社、こういう時のために契約タクシーを何台か手配していて……今、一台、ロータリーの裏に来てるんです。もしよければ、相乗りしませんか」


 一瞬、意味が分からなかった。

 理解した途端、胸の奥が別の意味で騒ぎ出す。


(……え。拓也さんと、タクシー)


「この状況で、一人は心配なので」


 そう言ってから、彼は一拍遅れて目を逸らした。耳の端だけが少し赤い。


 優菜は、喉の奥で小さく息を飲んだ。


「い、嫌じゃないです。ぜひ、お願いします」


 返事が速すぎた。

 こんな非常時にまで、自分の心だけが別の回線で動いているのがわかって、少しだけ情けない。


 嵐の中、二人は黒塗りのタクシーに駆け込んだ。

 重いドアが閉まった瞬間、世界の音がひとつ遠くなる。


「……首都高、やっぱり通行止めですね」


 運転手がバックミラー越しに申し訳なさそうに言った。


「湾岸線も止まってます。かなり遠回りになりますが、川崎から根岸の方へ抜けて、下の道で行きますね。時間はかかりますが、あっちの方が冠水は少ないはずですから」

「お願いします」


 拓也が落ち着いた声で答え、シートに深く背を預けた。


 タクシーは水飛沫を上げながら、雨の帳が降りた臨海部へと舵を切る。厚いガラスに遮られた車内は、驚くほど静かだった。

 ダッシュボードの奥からはカーラジオが低く流れている。最初は淡々と各地の避難情報を伝えるアナウンサーの声。けれど、タクシーが多摩川を渡り、川崎の工業地帯へ差しかかる頃、不意にノイズ混じりのジャズが流れ始めた。


(……近い)


 右側に拓也の肩。左側にはドア。

 いつもの電車よりずっと近いのに、逃げ場はないはずなのに、不思議と息苦しさはなかった。むしろ、さっきまで駅で感じていたざらついた不安が、少しずつほどけていく。


 窓の外には巨大な工場群が要塞みたいにそびえ立っている。

 雨に濡れた鉄骨やパイプが、オレンジや青の光を乱反射させていた。流れ落ちる雨粒越しに見るその景色は、どこか現実離れしていて、まるで別の街へ紛れ込んだみたいだった。


 ピアノの音が、窓を叩く雨のリズムに重なる。

 工場の灯りが、ジャズの旋律に合わせるように拓也の横顔を静かになぞっていく。


 優菜は、そっと息を整えた。


 沈黙。

 けれど、その沈黙は不思議と苦しくなかった。ラジオから流れる掠れたサックスの音と、車内にこもる革の匂い、拓也の微かな石鹸の香り。その全部が、狭い空間をゆっくり満たしていた。


 不意に、大きな雷鳴が轟き、車体がガタッと揺れた。


「っ……」


 思わず身を縮めた優菜の方へ、拓也の手が、座席の上をそっと滑る。触れるか触れないか、そのぎりぎりの距離まで来て止まった。


「……大丈夫ですよ。もうすぐ着きますから」


 低い声が、暗い車内で静かに落ちた。

 その言葉は、雨に煙る根岸の夜景よりもずっと深く、優菜の心に届いた。


 優菜は自分の膝の上で強ばっていた手を、少しだけ開いた。

 暗闇の中で、彼がこちらを見た気配がした。


(……喋らなくていい)

(この沈黙、好きだ)


 そう思った瞬間、自分で少し驚く。

 道が混んでいるおかげで、この時間が少しだけ伸びている。不謹慎だと分かっているのに、台風が去るのを惜しいと思ってしまうくらいには、今のこの静けさが名残惜しかった。


 工場の灯りが遠ざかり、タクシーは静かに住宅街へ入っていく。


(……もう少しだけ、このままでいたい)


 閉じ込められた幸福は、もうすぐ終わる。

 ちゃんと現実の速度で。


 けれど、窓の外で絶え間なく流れていた雨だけは、最後まで少しもやさしくならなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


台風によって閉じ込められた、タクシーの中の短い時間。


激しい雨や雷の中でも、拓也が隣にいるだけで、優菜の不安は少しずつほどけていきました。


会話が途切れても苦しくない。

むしろ、この静かな時間が終わらなければいいと思ってしまう。


二人にとって、沈黙はもう気まずさではなく、安心して分け合えるものになり始めています。


次話「名前の交換」では、別れ際の優菜が勇気を振り絞り、二人の関係を変える一歩を踏み出します。

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