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冬のレモン、キャメルの背中 ~満員電車で私を守ってくれた十九歳上の彼に、ゆっくり恋をしました~  作者: ちょこまろ


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第11章:名前の交換

台風の夜、拓也と過ごした静かな帰り道。


けれどタクシーを降りれば、二人はまた、毎朝顔を合わせるだけの関係へ戻ってしまいます。


それを惜しいと思った優菜は、別れ際、もう一歩だけ勇気を出します。

 タクシーが優菜のアパートの前に滑り込み、静かに停車した。

 メーターの赤い数字が止まる。

 同時に、二人を包んでいた短い避難所の時間も、終わりを告げた。


 運転手が「着きましたよ」と静かに告げる。

 自動ドアが開く。その隙間から、台風が残していった湿った外気と、濡れたアスファルトの匂いが車内へ流れ込んできた。

 ついさっきまで優菜たちを包んでいた、革の匂いと石鹸の気配が、少しずつ外の夜にほどけていく。


「……ありがとうございました、拓也さん。本当に、助かりました」


 優菜はバッグのストラップを握りしめたまま、精一杯の感謝を口にした。

 それで終わるはずだった。

 それで終わらせるのが、たぶん一番自然だった。


 でも、足が動かない。


 このドアを降りてしまったら、月曜の朝までまた会えない。

 せっかく名前の輪郭に触れかけたのに、また「何も知らない人」に戻ってしまう。

 それが、急にたまらなく惜しくなった。


 優菜は息を吸い込んで、もう一度、隣を向いた。


「あの……拓也さん」


「はい」


 今度は驚かせないように、小さく呼んだつもりだった。

 それでも、自分の声は少し震えていた。


「私、ちゃんと……お名前を聞いていなかったなって」


 紗希から聞いた名前を、心の中でこっそり抱えていたことは言えない。

 あれはあくまで、人づてに耳へ入った音でしかなかった。

 今日ここで、ちゃんと本人から受け取りたかった。


「……お名前、教えていただいてもいいですか」


 言ったあとで、胸がきゅっと縮む。

 図々しかっただろうか。急すぎただろうか。

 タクシーの窓を叩く小さな雨音だけが、妙に大きく聞こえた。


 拓也は少しだけ目を見開き、それからゆっくり視線を落とした。

 ほんの短い沈黙。けれど優菜には、それがやけに長く感じられた。


「……桐生です」


 低い、少しかすれた声だった。


「桐生拓也。……それが、私の名前です」


 優菜は息を止めた。


 桐生拓也。

 心の中で何度も反芻してきた音が、今、初めて本人の口からまっすぐ届く。

 その響きが胸の奥に落ちて、静かに場所を取る。


「……桐生さん」


 初めて、自分の口でその名前を呼ぶ。

 たったそれだけなのに、彼が少しだけ遠くて、少しだけ近くなった気がした。


 優菜は喉を鳴らして、もう一度息を整えた。


「私は……優菜です。朝比奈優菜」


 自分の名前を差し出すのが、こんなに恥ずかしいなんて知らなかった。

 まるで胸の内側をそのまま見せるみたいで、指先まで熱くなる。


 拓也は、優菜を見た。

 それから、名前を確かめるようにゆっくり口にした。


「……優菜さん」


 その呼び方は、思っていたよりずっと静かで、思っていたよりずっと深く刺さった。

 優菜は一瞬、呼吸の仕方を忘れた。


「……いい名前ですね」


 拓也はそう言って、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


「朝比奈さんに、よく似合う」


 優菜の心臓が、また一つ大きく鳴る。

 こんな夜に、こんなふうに名前を受け取って、返されるなんて思わなかった。


「……あ、あの、それじゃあ、おやすみなさい」

「はい」

「本当に、ありがとうございました」


 これ以上ここにいたら、何かが顔に出てしまいそうだった。

 優菜は逃げるみたいにドアを降りた。


 バタン、とドアが閉まる。

 タクシーのテールランプが、雨上がりの夜に赤い線を引いて、角の向こうへ消えていく。


 優菜は、がたつくアパートの前でしばらく動けなかった。

 もう雨は止んでいた。雲の切れ間から、洗われたみたいな月が顔を出している。


(……優菜さん)


 たった今、彼が呼んだ自分の名前が、耳の奥で何度も繰り返される。

 今までずっと自分のものでしかなかった名前が、急に違う温度を持ったみたいだった。


 古い鉄階段を上がりながら、優菜は胸元を押さえた。

 濡れた髪も、靴に残る湿り気も、もうどうでもよかった。


 狭い玄関に入ってドアを閉めても、まだ、あのタクシーの中の沈黙が身体のどこかに残っている。

 雨はもう止んだのに、優菜だけがまだ、あの夜の続きを抱えたままだった。


(……だめだ)


 桐生拓也。

 優菜さん。


 その二つの名前が、胸の中で何度も入れ替わるたびに、心拍数が少しずつおかしくなる。


(……今日のこと、たぶん、ずっと忘れない)


 優菜は玄関に背を預けたまま、目を閉じた。

 明日の朝もまた、同じ電車に乗る。いつもの車両に乗って、あの小さな箱に立つ。


 でも、昨日までとはもう少しだけ違う。


 名前を知ってしまった。

 知られてしまった。

 たったそれだけなのに、明日の朝が少し怖くて、少し待ち遠しい。


 優菜は熱の残る頬に触れて、小さく息を吐いた。


(……優菜さん、は反則)

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


「らくださん」でも、「銀縁眼鏡の彼女」でもなく。


桐生拓也と、朝比奈優菜。


二人はようやく、本人の口から互いの名前を受け取りました。


名前を知っただけ。

それでも、自分の名前を好きな人の声で呼ばれることは、昨日までとは違う温度を持つものなのかもしれません。


少し怖くて、それ以上に待ち遠しい、次の朝。


次話「亀裂」では、仕事で追い詰められた優菜の心に、大きなひびが入り始めます。そんな彼女に拓也が差し出すのは、励ましの言葉ではなく、ただ黙って守るための場所です。

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