表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冬のレモン、キャメルの背中 ~満員電車で私を守ってくれた十九歳上の彼に、ゆっくり恋をしました~  作者: ちょこまろ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/37

第12章:亀裂

どれだけ努力しても、正しさだけでは守れないものがある。


仕事に誇りを持つ優菜は、上司から事実を都合よく書き換えるよう迫られ、逃げ道のない選択を突きつけられます。


張り詰めていた心に亀裂が入った夜、優菜のそばに立ったのは、何も聞かず、何も求めない拓也でした。

 八月。

 会議室の空気は、冷えた空調の音まで縮こまらせるように張りつめていた。


 一番奥、窓を背にした席にいるのが部門の最高責任者、マークだ。

 このフロアで彼に逆らうのは、自分から評価シートを細かく裂くのとほとんど同じ。それが、この場所の不文律だった。


「ユウナ。君のレポートは考えすぎだ。結論は『買い』に直して。細かい数字の整合は、あとでいくらでも取れる」


 マークは、優菜が一ヶ月かけて積み上げたデータシートの一番上に、飲みかけのコーヒーカップを無造作に置いた。

 じわり、と茶色い輪染みが広がっていく。

 必死に揃えた数字の上に、他人の温度が平然と残っていく。


 優菜は喉の奥が焼けるような感覚を押し殺して、口を開いた。


「……マーク。この企業のキャッシュフローは限界です。ここで『買い』と書くのは、分析じゃなくて誘導です」


「ユウナ」


 低く、短い声。

 彼は革張りの椅子の背にもたれたまま、冷たい視線を優菜へ向ける。


「君は優秀だ。でも、優秀であることと売れるレポートを書くことは別だ。クライアントが欲しいのは“正しい作文”じゃない。判断材料だ」

「……判断材料なら、なおさら事実を曲げるべきじゃありません」

「曲げろとは言っていない。見せ方を変えろと言っている」


 薄い笑み。

 親切そうに見えて、実際には逃げ道を塞ぐためだけの笑みだった。


「君のその“正しさ”は立派だよ。だが、ここでは武器にもなれば足枷にもなる。わかるだろう? 君は賢いんだから」


 一拍。

 空調の音だけが、やけに大きく響いた。


「明日までに直しておいて。議論はそこから先に進めない」


 マークは返事も待たずに立ち上がり、部屋を出ていった。

 重いドアが閉まる音が、会議の終わりではなく、優菜の中の何かにひびが入る音みたいに聞こえた。


 机の上には、茶色い輪染みだけが残っている。


 優菜はそれを見つめたまま、しばらく動けなかった。

 怒りなのか、悔しさなのか、情けなさなのか、自分でも分からない。ただ、胸の奥だけがじくじく熱い。


「……優菜、大丈夫?」


 隣のデスクの由紀が、声を潜めて肩に手を置いた。

 指先が少しだけ震えているのが分かる。


「マーク、わざとだよ。優菜の“譲れないところ”がどこか、ちゃんと分かってて踏みに来てる」

「……わかってる」

「じゃあ、今日はもうやめな。意地で立ってると、折れるよ」


 由紀の瞳には、同情と、同じ泥の中で生き延びてきた人間の諦めが混ざっていた。


「……でもそれ、言い換えたら“都合のいい作文を書け”ってことでしょ」

「そうだよ」


 由紀は即答した。


「だから嫌なんでしょ。わかる。でも、ここで全部正面から受けたら、優菜の方が先に壊れる」


 優菜は返事ができなかった。

 正しいことを言ったはずなのに、どうして自分の方だけが削られていくのか。向こうは何ひとつ失っていない顔をしているのに、どうして自分だけがこんなに消耗しているのか。


 由紀は少しだけ間を置いてから、肩をすくめた。


「……今日だけは、自分の正義を冷蔵庫にでも入れて帰りな」

「冷蔵庫」

「今の優菜、持ち歩くには熱すぎる」


 雑で、少しだけずれた励まし方だった。

 なのに、その雑さが今はありがたかった。


 優菜は小さく頷いて、バッグを掴んだ。


     *


 大手町のオフィスを出て、東京駅への地下通路を歩く。

 ヒールの音だけが空っぽに響く。地上へ出ると、八月の熱風が顔を殴るみたいにぶつかってきた。アスファルトの照り返しが、折れかかった気持ちをさらにじりじり焼いていく。


 東海道線のホーム、一〇号車三番ドアの前。

 いつもなら、桐生さんに会えるかもしれないと胸が少しだけ浮く場所。

 けれど今の優菜には、その光さえまぶしすぎた。


(……見られたくない)


 惨めで、うまく戦えなくて、正しさまで守れなかった今日の自分を。

 視線をパンプスのつま先に固定したまま、優菜は浅い呼吸をどうにか整えようとした。


 背後に、聞き慣れた足音が近づいてくる。


 ……桐生さんだ。


 彼は、優菜の数歩隣に立った。

 いつもなら「こんばんは、朝比奈さん」と穏やかな声が降ってくるはずなのに、今日は違った。沈黙だけが、重く静かに流れている。


 彼は気づいたのだろう。

 優菜の指先が微かに震えていることに。

 視線が一点に固まったまま動かないことに。


 桐生は「どうしたんですか」とは聞かなかった。

 何か言いかけて、飲み込んだ喉仏が一度だけ動く。

 それから、ただ、いつもの距離より少しだけ近い場所に黙って立った。


(……聞かないでくれるの、助かる)


 アナウンスが流れ、オレンジとグリーンのラインが入った東海道線が滑り込んでくる。

 ドアが開いた瞬間、中から吐き出される熱気と人の波。押し流されそうになった優菜を、桐生の長い腕がさりげなく、でも確実に引き寄せた。


 車内は体温がぶつかり合う圧縮地獄。

 けれど桐生は、ドア横のわずかなスペースへ優菜を誘い込むようにして、自分の体で壁を作った。吊り革を掴む彼の腕が、優菜の頭上をまたぎ、周囲の喧騒や圧力から遮ってくれる。


 近い。

 物理的に。


 呼吸の場所が分からない。

 心拍だけが勝手に残業している。


 何も聞かない。

 慰めない。

 正しいことも、頑張れも、言わない。


 ただ、これ以上ひびが広がらないようにするみたいに、黙ってそこにいる。


 それだけなのに、会議室で汚された神経が、ゆっくり洗い流されていくのが分かった。


 由紀は「正義を冷蔵庫に入れて帰れ」と言った。

 マークは「見せ方を変えろ」と言った。

 でも、この人だけは、今のボロボロの自分に何も要求しない。


 そのことが、ひどく救いだった。


 泣いたら負けだ、と思う。

 今日だけは、まだ負けを確定させたくない。

 それでも、ずっと張り詰めていた指の力が、少しずつ抜けていく。


 電車の窓に映る、無表情で優菜を守る彼のシルエット。

 それが、今にも砕けそうな心を、静かに、でも確かに繋ぎ止めていた。


(……ありがとうございます、桐生さん)


 声には出さず、心の中でだけ呟く。


 八月の夜。

 優菜はまだ、あのアスファルトの熱の中にいる。

 明日には、マークに頷くか、席を窓際に飛ばされるかの二択が待っている。


 それでも。

 隣にあるこの静かな体温のおかげで、自分はまだ壊れずに明日を迎えられる気がした。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


正しいことを守ろうとしたのに、自分だけが傷ついていく。


優菜にとって今回の出来事は、単なる職場の衝突ではなく、これまで必死に築いてきた自信まで揺るがすものでした。


そんな優菜に、拓也は事情を問いただすことも、無理に励ますこともしません。


ただ、これ以上心の亀裂が広がらないように、いつもの場所で黙って守りました。


何も言わない優しさに救われた優菜は、まだ壊れずに明日を迎えられそうです。


次話「庭のレモン」では、拓也が優菜を自宅へ招きます。毎朝の電車とは違う場所で、優菜は彼の過去と、庭に実るレモンに触れることになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ