第12章:亀裂
どれだけ努力しても、正しさだけでは守れないものがある。
仕事に誇りを持つ優菜は、上司から事実を都合よく書き換えるよう迫られ、逃げ道のない選択を突きつけられます。
張り詰めていた心に亀裂が入った夜、優菜のそばに立ったのは、何も聞かず、何も求めない拓也でした。
八月。
会議室の空気は、冷えた空調の音まで縮こまらせるように張りつめていた。
一番奥、窓を背にした席にいるのが部門の最高責任者、マークだ。
このフロアで彼に逆らうのは、自分から評価シートを細かく裂くのとほとんど同じ。それが、この場所の不文律だった。
「ユウナ。君のレポートは考えすぎだ。結論は『買い』に直して。細かい数字の整合は、あとでいくらでも取れる」
マークは、優菜が一ヶ月かけて積み上げたデータシートの一番上に、飲みかけのコーヒーカップを無造作に置いた。
じわり、と茶色い輪染みが広がっていく。
必死に揃えた数字の上に、他人の温度が平然と残っていく。
優菜は喉の奥が焼けるような感覚を押し殺して、口を開いた。
「……マーク。この企業のキャッシュフローは限界です。ここで『買い』と書くのは、分析じゃなくて誘導です」
「ユウナ」
低く、短い声。
彼は革張りの椅子の背にもたれたまま、冷たい視線を優菜へ向ける。
「君は優秀だ。でも、優秀であることと売れるレポートを書くことは別だ。クライアントが欲しいのは“正しい作文”じゃない。判断材料だ」
「……判断材料なら、なおさら事実を曲げるべきじゃありません」
「曲げろとは言っていない。見せ方を変えろと言っている」
薄い笑み。
親切そうに見えて、実際には逃げ道を塞ぐためだけの笑みだった。
「君のその“正しさ”は立派だよ。だが、ここでは武器にもなれば足枷にもなる。わかるだろう? 君は賢いんだから」
一拍。
空調の音だけが、やけに大きく響いた。
「明日までに直しておいて。議論はそこから先に進めない」
マークは返事も待たずに立ち上がり、部屋を出ていった。
重いドアが閉まる音が、会議の終わりではなく、優菜の中の何かにひびが入る音みたいに聞こえた。
机の上には、茶色い輪染みだけが残っている。
優菜はそれを見つめたまま、しばらく動けなかった。
怒りなのか、悔しさなのか、情けなさなのか、自分でも分からない。ただ、胸の奥だけがじくじく熱い。
「……優菜、大丈夫?」
隣のデスクの由紀が、声を潜めて肩に手を置いた。
指先が少しだけ震えているのが分かる。
「マーク、わざとだよ。優菜の“譲れないところ”がどこか、ちゃんと分かってて踏みに来てる」
「……わかってる」
「じゃあ、今日はもうやめな。意地で立ってると、折れるよ」
由紀の瞳には、同情と、同じ泥の中で生き延びてきた人間の諦めが混ざっていた。
「……でもそれ、言い換えたら“都合のいい作文を書け”ってことでしょ」
「そうだよ」
由紀は即答した。
「だから嫌なんでしょ。わかる。でも、ここで全部正面から受けたら、優菜の方が先に壊れる」
優菜は返事ができなかった。
正しいことを言ったはずなのに、どうして自分の方だけが削られていくのか。向こうは何ひとつ失っていない顔をしているのに、どうして自分だけがこんなに消耗しているのか。
由紀は少しだけ間を置いてから、肩をすくめた。
「……今日だけは、自分の正義を冷蔵庫にでも入れて帰りな」
「冷蔵庫」
「今の優菜、持ち歩くには熱すぎる」
雑で、少しだけずれた励まし方だった。
なのに、その雑さが今はありがたかった。
優菜は小さく頷いて、バッグを掴んだ。
*
大手町のオフィスを出て、東京駅への地下通路を歩く。
ヒールの音だけが空っぽに響く。地上へ出ると、八月の熱風が顔を殴るみたいにぶつかってきた。アスファルトの照り返しが、折れかかった気持ちをさらにじりじり焼いていく。
東海道線のホーム、一〇号車三番ドアの前。
いつもなら、桐生さんに会えるかもしれないと胸が少しだけ浮く場所。
けれど今の優菜には、その光さえまぶしすぎた。
(……見られたくない)
惨めで、うまく戦えなくて、正しさまで守れなかった今日の自分を。
視線をパンプスのつま先に固定したまま、優菜は浅い呼吸をどうにか整えようとした。
背後に、聞き慣れた足音が近づいてくる。
……桐生さんだ。
彼は、優菜の数歩隣に立った。
いつもなら「こんばんは、朝比奈さん」と穏やかな声が降ってくるはずなのに、今日は違った。沈黙だけが、重く静かに流れている。
彼は気づいたのだろう。
優菜の指先が微かに震えていることに。
視線が一点に固まったまま動かないことに。
桐生は「どうしたんですか」とは聞かなかった。
何か言いかけて、飲み込んだ喉仏が一度だけ動く。
それから、ただ、いつもの距離より少しだけ近い場所に黙って立った。
(……聞かないでくれるの、助かる)
アナウンスが流れ、オレンジとグリーンのラインが入った東海道線が滑り込んでくる。
ドアが開いた瞬間、中から吐き出される熱気と人の波。押し流されそうになった優菜を、桐生の長い腕がさりげなく、でも確実に引き寄せた。
車内は体温がぶつかり合う圧縮地獄。
けれど桐生は、ドア横のわずかなスペースへ優菜を誘い込むようにして、自分の体で壁を作った。吊り革を掴む彼の腕が、優菜の頭上をまたぎ、周囲の喧騒や圧力から遮ってくれる。
近い。
物理的に。
呼吸の場所が分からない。
心拍だけが勝手に残業している。
何も聞かない。
慰めない。
正しいことも、頑張れも、言わない。
ただ、これ以上ひびが広がらないようにするみたいに、黙ってそこにいる。
それだけなのに、会議室で汚された神経が、ゆっくり洗い流されていくのが分かった。
由紀は「正義を冷蔵庫に入れて帰れ」と言った。
マークは「見せ方を変えろ」と言った。
でも、この人だけは、今のボロボロの自分に何も要求しない。
そのことが、ひどく救いだった。
泣いたら負けだ、と思う。
今日だけは、まだ負けを確定させたくない。
それでも、ずっと張り詰めていた指の力が、少しずつ抜けていく。
電車の窓に映る、無表情で優菜を守る彼のシルエット。
それが、今にも砕けそうな心を、静かに、でも確かに繋ぎ止めていた。
(……ありがとうございます、桐生さん)
声には出さず、心の中でだけ呟く。
八月の夜。
優菜はまだ、あのアスファルトの熱の中にいる。
明日には、マークに頷くか、席を窓際に飛ばされるかの二択が待っている。
それでも。
隣にあるこの静かな体温のおかげで、自分はまだ壊れずに明日を迎えられる気がした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
正しいことを守ろうとしたのに、自分だけが傷ついていく。
優菜にとって今回の出来事は、単なる職場の衝突ではなく、これまで必死に築いてきた自信まで揺るがすものでした。
そんな優菜に、拓也は事情を問いただすことも、無理に励ますこともしません。
ただ、これ以上心の亀裂が広がらないように、いつもの場所で黙って守りました。
何も言わない優しさに救われた優菜は、まだ壊れずに明日を迎えられそうです。
次話「庭のレモン」では、拓也が優菜を自宅へ招きます。毎朝の電車とは違う場所で、優菜は彼の過去と、庭に実るレモンに触れることになります。




