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冬のレモン、キャメルの背中 ~満員電車で私を守ってくれた十九歳上の彼に、ゆっくり恋をしました~  作者: ちょこまろ


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第13章:庭のレモン

仕事で傷ついた優菜を、拓也は週末の自宅へ招きます。


毎朝のスーツ姿とは違う彼。

静かな家と、長い年月を越えて実をつける一本のレモンの木。


そこで優菜は、拓也が今も大切に抱えている過去に触れることになります。

 始まりは、あの嵐の夜の別れ際だった。


 横浜駅の改札前。人混みの中で、桐生さんは私の足元が覚束ないのを気にして、改札を抜けるまで付き添ってくれた。

 その時、彼は少し迷うように視線を伏せてから言った。


「土曜日、片瀬江ノ島の家でレモンの手入れをするんです。もしよければ、少し気分転換にでも。……彼氏さんと一緒でも」


 ――彼氏さん。


 その一言だけが、妙に胸に残った。

 私を気遣ってくれているのは分かる。分かるけれど、その気遣いが「誰かの隣にいる前提」で差し出されたことが、少しだけ苦しかった。


「……そんな人、いません」

「え」

「いません。……友達と一緒でも、いいですか」

「もちろんです」


 桐生さんは少しだけ驚いたように目を見開いて、それから、いつもの穏やかな表情に戻った。


「それなら、ぜひ」


     *


 ……そして今日。


 週末の片瀬江ノ島駅は、潮風と観光客の熱気でいっぱいだった。

 竜宮城みたいな赤い駅舎の前で、私は手土産の紙袋を指が白くなるほど握りしめ、由紀の到着を待っていた。


「優菜、お待たせー! ……って、何その顔。これから討ち入り?」

「……討ち入りっていうか、護衛任務」

「手土産、羊羹?」

「そう。命懸けで選んだ」

「重い重い。羊羹に背負わせる感情が重い」


 由紀は笑いながら、私の手元の紙袋を覗き込んだ。


「まあいいや。今日は“らくださん”の生態観察だもんね。親友として、ちゃんと検品してあげる」

「検品って言わないで」

「だって大事でしょ。あんた、完全に好きなんだから」

「声が大きい」


 二人で人混みの向こうを探した、その時。


「――朝比奈さん。ここです」


 聞き慣れた、でも平日より少し低くやわらかい声。

 振り向くと、そこには仕事用のスーツではない、洗いざらしの麻のシャツを肘まで捲り上げ、チノパンを履いた桐生さんが立っていた。


 ……だめだ。

 私服の破壊力が強すぎる。


(ちょっと待って。その腕の筋、何。時計を外した手首の白さ、何。平日の“壁”とは別種の情報量なんだけど)


「こんにちは。本当に、お迎えまでありがとうございます。桐生さん、こちら同期の由紀です」

「由紀です。今日はお招きいただいてありがとうございます」

「いえ。こちらこそ、朝比奈さんの大切なご友人に来ていただけて」


 桐生さんはそう言って、ほんの少しだけ笑った。


「さあ、行きましょうか」


 境川沿いを歩くあいだ、桐生さんは絶妙な距離感で道案内をしてくれた。

 観光客の多い場所ではさりげなく車道側に回り、足場の悪いところでは一瞬だけ歩幅を落とす。

 その自然さが、余計にずるい。


「……ねえ優菜」

 由紀が小声で耳元に寄る。

「何」

「あの麻シャツ、反則じゃない?」

「聞こえる」

「聞こえても事実だから仕方ないでしょ」

「しっ」


 潮の匂いが濃くなった頃、古いけれど手入れの行き届いた平屋が見えてきた。

 庭先には、思っていたよりずっと立派なレモンの木が一本、夏の光の中で静かに枝を広げている。


「朝比奈さん、いらっしゃい!」


 明るい声に顔を上げると、庭先で紗希さんが手を振っていた。

 東京駅で会った時と同じ、凛とした美しさと、遠慮のない明るさ。その姿が、この家の空気に妙に馴染んでいる。


「はじめまして、由紀です」

「紗希です。今日は気にせず、ゆっくりしていってね」

「……あ、これ。優菜が命懸けで選んだ羊羹です」

「あはは。命懸けって何。ありがとう、あとでみんなで食べよう」


 紗希さんが笑い、桐生さんが「ありがとうございます」と受け取る。

 その自然なやりとりを見て、由紀の視線がまた少し鋭くなるのが分かった。


 庭の中央に立つレモンの木を見上げた、その時だった。

 風が吹いて、枝がかすかに揺れる。鮮やかな実の色だけが、夏の光の中で静かに浮き上がった。


 古い家。

 整った庭。

 日差しの匂い。

 そして、この木だけがずっとここで季節を越えてきたのだと、ひと目で分かった。


「この木、きれいでしょう」


 紗希さんが、少しだけ声をやわらげて言った。


「拓也の奥さんが好きだったの。二人で植えた木でね。だからここだけは、ずっとちゃんと手を入れてる」


 空気が、少しだけ変わった。


 私はレモンの木を見上げたまま、しばらく何も言えなかった。

 “奥さん”という言葉の重さと、この庭の静けさが、同じ場所にある。

 それは思っていた以上に、まっすぐ胸へ入ってきた。


 私が抱き始めてしまった気持ちは、この家に残っている時間の長さに比べたら、あまりにも軽くて、頼りないものに思えた。

 でも、軽いからといって、なかったことにはできない。


「……素敵ですね」


 ようやく出た声は、自分でも少し驚くほど静かだった。


「レモンの木って、花言葉に『心からの思慕』があった気がします。……このお庭に、よく似合います」


 桐生さんが、少し驚いたようにこちらを見る。

 それから、ほんの少し照れたように視線を落とした。


「そんな意味があるんですか」

「たしか、ですけど」

「……朝比奈さんは、本当に物知りだ」


「よし、じゃあ中でお茶にしよう!」


 紗希さんの明るい声が、その場に落ちた沈黙をきれいに拾い上げた。


     *


 家の中は、桐生さんの印象そのままの静かな空間だった。

 古い文机、整然と並んだ本棚、きちんと揃った背表紙。どこかにうっすら、お線香の残り香が混ざっている。


 麦茶を運びながら、桐生さんがふと私に言った。


「朝比奈さん。……先日の夜、顔色がかなり悪かったので」

「……」

「会社で、何か無理をしているんじゃないかと。少し気になっていました」


 不意打ちだった。

 でも、責めるでも踏み込むでもなく、ただ“気にしていた”という言い方だった。


「……大丈夫です」

 私はグラスを持ち直して答える。

「少し立て込んでいただけなので」


 意地を張っている自覚はあった。

 それでも、今この家で、自分の職場の泥を全部持ち込むことはしたくなかった。


 羊羹を切り分けながら、紗希さんが茶目っ気たっぷりに言う。


「拓也、この人ほんと面倒見いいのよ。こないだ東京駅で会った時も、朝比奈さんのこと、すっごく気にしてたんだから」

「……紗希」

「はいはい、余計なこと言いました」


 桐生さんが苦笑いする。

 私は顔が熱くなるのを誤魔化すみたいに、冷たい麦茶のグラスを両手で包んだ。


 それを見ていた由紀が、私にだけ聞こえる声で呟く。


「……優菜、顔」

「やめて」

「いや無理。分かりやすすぎる」

「放っといて」


     *


 帰り際。

 夕暮れに染まる江ノ島を背に、桐生さんは駅舎の前まで送ってくれた。


 庭でもらったレモンをバッグにしまった私の横顔を見て、彼は小さく言った。


「……朝比奈さん。また、いつでも来てください」

「……」

「仕事で疲れた時でも、そうでなくても」


 一瞬、心臓が跳ねる。

 でも、そのあとに続いたのは、やっぱり彼らしい優しい気遣いだった。


「紗希も、喜ぶと思いますから」


 私はバッグの中のレモンに指先で触れた。

 まだ食べてもいないのに、胸の奥が、レモンをそのまま齧ったみたいにきゅっとする。

 その酸っぱさだけが、今の気持ちにいちばん近かった。


(……酸っぱい)


 甘いだけじゃない。

 でも、苦いとも少し違う。

 この庭を見てしまったから、もう前みたいに軽く浮かれるだけではいられない。それでも、好きだと思ってしまう気持ちまで消えるわけじゃなかった。


 電車に揺られながら、由紀が横目で私を見る。


「……優菜」

「何」

「あんた、あの人、相当好きでしょ」

「……わかる?」

「羊羹の味しないくらい顔が甘酸っぱかった」


 私は笑えなくて、でも否定もできなくて、窓の外に目を向けた。

 江ノ島の空は、明日からの過酷な日常を告げるみたいに、深く青く暮れていく。


 バッグの中のレモンが、走る電車の揺れに合わせて小さく転がった。

 その気配だけが、なぜかずっと胸に残っていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


拓也の庭にあったレモンの木は、亡き妻・仁美との思い出が残る、大切な木でした。


その時間の長さを目の前にして、自分の気持ちがあまりにも新しく、頼りないものに思えてしまった優菜。


それでも、好きだという気持ちは消せません。


甘いだけではなく、少し酸っぱくて、胸がきゅっとする恋。


拓也からもらったレモンは、優菜にとって彼の過去を知った証であり、これからの二人をつなぐ最初の実になりました。


次話「勝てない人」では、亡き妻には勝てないと悩む優菜に、拓也が過去と現在について、自分の言葉で向き合います。

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