第14章:勝てない人
拓也の庭でもらったレモンを、少しでも甘くしたい。
優菜はハチミツを買いながらも、亡き妻との思い出には勝てないと、胸のどこかで諦めかけていました。
けれど、その不安を打ち明けた優菜に、拓也は過去と現在を比べる必要はないと伝えます。
ハチミツは重い。
恋も、たぶん同じくらい重い。
八月、月曜日の夜。東京駅のホームは、熱帯夜の湿気と人いきれでむっとしていた。
丸の内の高級スーパーで手に入れたハチミツの瓶は、掌にずっしりと重い。
(……やっぱり、かなわないよね)
十年前で時が止まったままの奥さんに、今の私が勝てるわけがない。
ハチミツ一瓶の重さでよろける私が、桐生さんの中の大切な時間に並ぼうとするなんて、最初から無理なのかもしれない。
そんなことを考えながら、私は東海道線のホームに立っていた。
「朝比奈さん。……奇遇ですね」
不意に背後から届いたのは、少し低くて、耳の奥に静かに残るあの人の声だった。
「ひゃいっ!?」
変な声が出た。
振り返ると、街灯に照らされた桐生さんが、やわらかく目を細めて立っていた。
「あ、桐生さん……! お疲れさまです。いえ、ちょっと材料の調達を」
「材料、ですか?」
「はい。週末にいただいたレモンを、おいしくしたくて。……奮発しちゃいました」
紙袋を少し持ち上げると、桐生さんは「なるほど」と小さく笑った。
その笑い方が、胸の奥にたまっていた重さをほんの少しだけほどいてくれる。
滑り込んできた電車のドアが開き、私たちは並んで乗り込んだ。
冷房の冷気と、ガタンと大きく揺れる振動。二人の肩が一瞬だけ触れ合う。
(近い)
窓の外を流れる夜景に視線を逃がしたまま、私は喉の奥に引っかかっていた本音をこぼした。
「……桐生さん」
「はい」
「私、勝てないなって、思ってました」
桐生さんはすぐには聞き返さなかった。
ただ、私の言葉の続きを待つみたいに、静かにこちらを向く。
「奥さんに、です」
言ってしまってから、自分でも少しだけ息が苦しくなった。
こんなふうに比べること自体が失礼だと分かっている。分かっているのに、胸のどこかで勝手に比べて、勝手に負けていた。
桐生さんは、少しだけ視線を落とした。
「勝つとか、負けるとか……そういうことじゃないんだと思います」
低く、静かな声だった。
「仁美との時間は、もう、あそこで止まったままなんです。変えようとしても変えられない。僕の中では、そういう時間として残っているので」
一拍。
吊り革を握る手に、わずかに力がこもるのが見えた。
「でも」
その短い言葉のあとの声は、さっきより少しだけやわらかかった。
「そのレモンは、朝比奈さんが今日、ハチミツを選んでくれたことで、もう別のものになり始めてる。止まった思い出のままじゃなくて、今の時間の中で、少しずつ味が変わっていく」
「……」
「それは、僕一人ではできなかったことです」
私は息を止めたまま、桐生さんの横顔を見つめた。
勝つ恋じゃなくていい。
比べて、勝敗をつけるものじゃない。
この人と今の時間を重ねていくこと自体に、ちゃんと意味があるのだと、そう言われた気がした。
腕の中のハチミツの瓶が、ふっと少しだけ軽くなった気がした。
電車が横浜駅に滑り込んでいく。
ドアが開く瞬間の湿った夜風が、火照った頬を撫でた。
「じゃあ明日、絶対持ってきますから! 期待しててくださいね、桐生さん!」
今日一番の笑顔で言い切って、ホームへ降りようとした――その時。
勢いよく踏み出した右足が、自分のヒールに引っかかった。
「ひゃっ、あ……!」
盛大にたたらを踏み、ホームと車両の隙間へ吸い込まれそうになった私の体を、桐生さんの長い腕がドア越しにがしっと掴んだ。
「朝比奈さん!」
至近距離で視線がぶつかる。
吐息が届きそうなくらい近い場所に、彼の顔があった。
「……だ、大丈夫ですっ。ハチミツは無事です! 私もたぶん無事です!」
「ハチミツ優先なんですね」
「だって割れたら大惨事なので……!」
真っ赤な顔で紙袋を抱え直す私を見て、桐生さんは一瞬だけ呆気に取られたような顔をした。
それから、ふっと口元を崩した。
「……好きです」
「えっ」
「……あ」
今度は桐生さんの方が止まった。
私も止まった。
ホームの音も、閉まりかけたドアの警告音も、全部一瞬だけ遠くなる。
桐生さんは珍しく明らかに狼狽えて、視線を逸らした。
「……いえ、その」
「……」
「今のは……その、あなたの、そういう必死なところが、です」
言いながら、自分でもどうしようもなくなったみたいに片手で額を押さえる。
でも、その耳ははっきり分かるくらい赤かった。
私は言葉を失ったまま、ただ彼を見上げることしかできなかった。
桐生さんは小さく息を吐いて、それから、困ったように笑った。
「……すみません。変なことを言いました」
「い、いえ……」
「でも」
閉まりかけたドアの向こうで、彼はまだ少し赤い顔のまま言った。
「あなたには、たぶん、勝てないです」
ドアが閉まる。
走り去っていく電車の赤い尾灯を、私はその場に立ち尽くしたまま見送った。
夜の横浜の風は生暖かい。
それなのに、掴まれた肩のあたりには、彼の手の温かさが火種みたいにいつまでも残っていた。
勝てないままでいい。
その言葉が、さっきまでとはまるで違う意味で胸の中に残っている。
比べて負けることじゃない。どうしようもなく惹かれてしまって、抗えなくなること。たぶん、そういう意味だ。
腕の中の琥珀色の瓶は、街灯の下で静かに光っていた。
明日、甘くなるのはレモンだけじゃない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
亡き妻・仁美との時間は、拓也の中から消えるものではありません。
けれど、優菜がハチミツを選んだことで、庭のレモンは過去の思い出だけではなく、今の時間へと少しずつ変わり始めました。
誰かに勝つ恋ではなく、二人で新しい味を重ねていく恋。
そして別れ際、拓也の口からこぼれた「好きです」という一言。
すぐに言い直されてしまいましたが、最後に告げられた、
「あなたには、たぶん、勝てないです」
という言葉には、もうごまかしきれない彼の気持ちが滲んでいました。
次話「熱帯夜、警告。」では、その一言に期待していいのか迷う優菜が、もらったレモンをハチミツに漬けながら、揺れる気持ちと向き合います。




