第15章:熱帯夜、警告。
拓也の口からこぼれた「好きです」という言葉。
すぐに言い直されたからこそ、優菜は期待していいのか、それとも警戒するべきなのか分からなくなっていました。
そんな揺れる気持ちを抱えたまま、優菜は拓也の庭でもらったレモンを、ハチミツに漬け始めます。
期待しすぎるのは、毒になる。
八月中旬。
夜になっても、窓の外には熱帯夜の湿った空気がねっとりと貼りついていた。窓を開けた瞬間、誰かに至近距離でドライヤーの熱風を当てられたみたいな不快感がまとわりつく。
ワンルームのエアコンは二十三度設定で必死に唸っているのに、頬の熱を冷ますには少し足りない。
キッチンのテーブルには、さっき丁寧に洗って水気を拭き取ったレモンと、丸の内の高級スーパーで奮発したアカシアはちみつの瓶が並んでいた。
桐生さんの庭でもらった、あのレモンだ。
「見てなさいよ、レモン」
煮沸した保存瓶を両手で持ちながら、私は小さく宣言した。
「丁寧な暮らしで、ちゃんと甘くしてみせるんだから」
言っていて少しだけ恥ずかしい。
でも、そうでもしないと、月曜日のホームで起きたことをうまく処理できなかった。
――好きです。
あの一言を、まだ私はうまく飲み込めていない。
言い直された。慌てて引き戻された。けれど、いったん出た言葉がなかったことになるわけでもない。
期待していいのか、だめなのか。少しだけ前に進んだのか、ただ足元が崩れただけなのか。
分からない。
分からないから、とりあえず目の前のレモンを漬ける。
「……現実的。非常にいい」
自分に言い聞かせるように呟いて、輪切りにしたレモンを瓶の中に並べていく。
薄い果肉の断面が、蛍光灯の下で小さく透ける。その上から、はちみつをゆっくり傾けた。
「わっ、ちょっと、待って……!」
とろりと落ちた琥珀色のはちみつは、思ったよりずっと自由奔放だった。瓶の縁を伝い、私の指にねっとり絡みつき、そのままテーブルへ点々と落ちる。
「あああ、丁寧な女が台無し……!」
慌てて瓶を置く。ティッシュを取る。指を拭く。
その最中、テーブルの端でスマホが激しく震えた。画面には「由紀」の文字。反射的に、まだ少しべたつく手で通話ボタンを押してしまう。
『……もしもし? 優菜、あんた今、スマホべたべたで取ったでしょ』
「なんで分かるの」
『長い付き合いだから』
「はちみつが勝手に襲ってきたの!」
『言い訳が三歳児』
電話の向こうで、由紀が笑う気配がした。
私は肩と頬でスマホを挟みながら、必死に保存瓶の周りを拭く。
「聞いてよ由紀。今、大事なレモンを漬けてる最中なんだから」
『その割には声が浮かれてるけど。……さては、桐生さん関連で何かあったな?』
私は手を止めた。
図星すぎて、沈黙が一瞬だけ長くなる。
『はい、分かりやすすぎ』
「……月曜のこと、話していい?」
『どうぞ。私はもう、羊羹の時点でだいたい覚悟してる』
私はキッチンの椅子に腰を下ろして、月曜のホームでの出来事をぽつぽつ話し始めた。
ハチミツを買ったこと。勝てないと思っていたこと。転びかけたこと。そして――
「……で、その時、拓也さんが」
『うん』
「『好きです』って言ったの」
『……ふーん』
「その“ふーん”やめて」
『で、そのあと?』
「すぐ言い直した。『その必死なところが』って……」
『あー』
私は思わず天を仰いだ。
「だから、その“あー”が嫌なの! 何その、全てを見通した相談員みたいな反応!」
『だって状況としてはそうでしょ。出たけど戻した、が現実だし』
「現実的すぎて刺さる」
由紀がくすっと笑う。
『でもまあ、ゼロではないよね』
「でしょ!?」
『うん。でも百でもない』
「厳しい!」
『親友だからね』
私はスマホを持ち直し、テーブルの上のレモンを見る。
薄切りの輪が、瓶の中で静かに重なっている。はちみつはまだ完全には馴染んでいない。それでも、さっきより少しだけ角がやわらいで見えた。
「レモンの方が、私より進捗いいんだけど」
『どういうこと』
「だって、まだ一晩も経ってないのに、もうちゃんと甘くなる準備してるじゃん」
『比較対象が柑橘なの、かなり終わってるね』
「知ってるよ……」
私は瓶を覗き込みながら、小さく息を吐いた。
「私なんて、『好き』の二文字が一回出ただけで、喜んでいいのか警戒すべきか分かんなくて、まだ同じところぐるぐるしてるのに」
『優菜の心、皮が厚いからね』
「ひどい」
『でも中身はわりと繊細』
「もっとひどい」
由紀は少し黙ってから、いつもよりやわらかい声で言った。
『……でも、よかったじゃん』
「え」
『あんた、最近ずっと怖がってたでしょ。自分だけが浮かれてるんじゃないかって』
「……」
『だから、“向こうも少しは揺れてるかもしれない”って分かっただけでも、ちょっとは楽になったんじゃないの』
私は返事をしなかった。
代わりに、指先についたはちみつをティッシュで拭いながら、目を伏せる。
たしかに、少しだけ楽になった。
少しだけ。
でも、その少しだけがいちばん厄介なのだ。期待できる。断言はできない。前に進みたい。でも足場がまだ揺れる。その半端な温度が、いちばん眠れない。
「……厳しいなあ、由紀は」
『親友だから言ってんの。浮かれすぎると転ぶでしょ、あんたは実際に』
「それは物理」
『恋もだいたい似たようなもんでしょ』
私は思わず笑ってしまった。
笑った拍子に、また少しだけ、はちみつが指先から垂れる。
「ほら見て。またべたべた」
『優菜の今の感情そのものじゃん』
「言い方」
『ぴったりでしょ』
由紀は最後に小さく笑った。
『じゃあ、明日の報告待ってる。スマホちゃんと拭いてから寝なよ』
「保護者みたいなこと言わないで」
『はいはい。おやすみ』
通話が切れて、キッチンに静けさが戻る。
エアコンの音だけが、夜気と戦い続けていた。
私はもう一度、保存瓶を眺めた。
はちみつの中で、レモンの輪がゆっくり沈んでいる。
「……やっぱり、レモンの方が社会性ある」
瓶の中では、はちみつがすでにレモンに馴染み始めていた。
あんなに張っていた果皮も、明日には少しだけやわらかくなっているのだろう。
それに比べて私はどうだ。
月曜日に『好き』の二文字を掠めただけで、嬉しいのか怖いのかも整理できず、冷蔵庫の前でレモンにまで先を越されている。
「……最高に情けない」
小さく呟いて、保存瓶の蓋を閉めようとした、その瞬間。
つるっ。
「あ……っ!」
蓋が手の中で滑り、空中で一度だけひっくり返った。
私は反射的に腕を伸ばし、床に落ちる寸前でどうにかそれを掴む。
「ふぅ……」
しばらくそのまま、膝に手をついて息を整えた。
誰も見ていないのに、やけに恥ずかしい。
「……本当に、かっこ悪い」
でも、その一言が出たあと、思わず自分で笑ってしまった。
完璧じゃない。全然スマートじゃない。レモンひとつ漬けるのに、ここまでべたべたして、蓋まで落としかける。
それでも、こういう夜が嫌いじゃないと思ってしまう自分がいた。
冷蔵庫の暗がりに保存瓶をしまい、私は熱を含んだ空気の残る部屋へ戻った。
あとはシャワーを浴びて、髪を乾かして、寝るだけ。そう思っていた、その時だった。
枕元に置いたスマホが、短く震えた。
こんな時間に誰だろうと思いながら画面を見る。
表示されていた名前に、息が止まった。
――桐生拓也。
指先が一気に熱くなる。
メッセージは、たった一行だった。
『明日、楽しみにしています』
私はしばらく、その文字を見つめたまま動けなかった。
「……判定、まだノーゴールなんですけど」
誰に言うでもなく呟く。
慌ててスマホの画面を拭こうとして、さっきまでのはちみつがほんの少しだけ指に残っていたことに気づく。
「最悪……」
でも、口元は勝手にゆるんでしまう。
画面の上で布がうまく滑らない。心臓だけが無駄に元気で、静かな夜にひとりで騒いでいる。
既読をつけるのが怖い。
でも、つけないまま眠れるほど、私は大人じゃない。
熱帯夜の空気は相変わらず重い。
なのに、胸の奥だけが、少しだけ浮いていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
甘くなる準備を始めたレモンとは違い、自分の気持ちをうまく整理できない優菜。
期待しすぎれば傷つく。
けれど、拓也の心も少しは揺れているのかもしれないと思えば、どうしても嬉しくなってしまいます。
そんな熱帯夜に届いた、
「明日、楽しみにしています」
という拓也からのメッセージ。
告白ではありません。
それでも、優菜を待っていることを本人の言葉で伝えてくれた、確かな一歩でした。
次話「海への口実」では、ハチミツ漬けのレモンを届けた優菜が、思い切って拓也を海へ誘います。




