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冬のレモン、キャメルの背中 ~満員電車で私を守ってくれた十九歳上の彼に、ゆっくり恋をしました~  作者: ちょこまろ


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第16章:海への口実

拓也のために作った、ハチミツ漬けのレモン。


優菜はそれを届けるという口実で、再び彼の家を訪れます。


甘くなり始めたレモンを一緒に味わいながら、優菜はもう一つの口実を胸に、拓也を夏の海へ誘います。

 期待しすぎるのは毒だ。

 でも、期待すらできないのは、たぶんもっとつらい。


 八月中旬、午前九時。

 私は、桐生さんの家の玄関前で保冷バッグを抱えたまま、人生最大級の深呼吸を繰り返していた。昨夜、はちみつのついた指で「既読」をつけてしまったあの瞬間から、私の睡眠時間は実質ほぼゼロである。


(……大丈夫。私はレモン。私は、ちゃんと馴染めるレモン)


 自分でも意味の分からない自己暗示をかけながら、震える指でインターホンを押す。

 数秒後、カチャリとドアが開いた。


「おはようございます、優菜さん。早いですね」


 そこには、寝癖ひとつない完璧な桐生さんが立っていた。

 麻のシャツを無造作に羽織り、洗いたてのタオルみたいな清潔な匂いをまとっている。いつも通りの、清潔感の化身。

 それに対して私は、コンシーラーで必死にクマを隠した、徹夜明けの残骸だ。


「お、おはようございます! これ、昨日のレモンです。まだそんなに馴染んでないんですけど、その、独り占めするのもどうかと思って……」

「独り占め」

「……社会的に」

「社会的に、ですか」


 桐生さんが少しだけ首を傾げる。

 ああ、もうだめだ。今日も開始三十秒で日本語が怪しい。


 私は逃げるようにリビングへ上がり込み、保冷バッグから黄金色の保存瓶を取り出した。

 冷房の効いた室内は、外の熱気が嘘みたいに静かで涼しい。


 桐生さんは瓶を受け取ると、窓から差し込む朝の光にそっとかざした。

 琥珀色のはちみつの中で、薄切りのレモンがやわらかく光る。長い指が、瓶の表面についた冷たい結露をなぞった。


「綺麗ですね」

「……」

「昨日、これを作っていたから、すぐにお返事をくださったんですか?」


 ――刺さった。


 私は一瞬、呼吸を止めた。

 昨夜、彼のメッセージに秒で既読をつけた私の所業を、桐生さんは「キッチンで作業していたからスマホをすぐ見た」と解釈してくれたらしい。

 神様、この人がどこまでも紳士で本当に良かった。


「そ、そうなんです! 丁寧な暮らしって、スマホを見る暇もないくらい忙しくて!」

「そういうものですか」

「たぶん……!」


 見栄は無料。嘘はきっと有料。

 私は心の中で由紀に謝りながら、桐生さんがレモンを炭酸水で割るのを眺めていた。


 氷の入ったグラスにレモンを落とし、はちみつを少しだけ加え、炭酸水を注ぐ。

 しゅわ、と細かな泡が立ちのぼる。


「……美味しい」


 一口飲んだ桐生さんが、本当に嬉しそうに目を細めた。

 グラスの中で氷がカランと鳴る。その音を聞いた瞬間、昨夜の寝不足も、指にはちみつが絡みついた惨事も、全部どうでもよくなった。


「昨夜漬けたばかりなのに、もうちゃんと甘いですね」

「ほんとですか?」

「ええ。驚きました」


 その横顔を見ながら、私はカウンター越しにそっと口を開く。

 できるだけ、何でもない話みたいに。


「桐生さん、あの……夏休みって、どこか行かれました?」

「いえ。特には」

「そうなんですね」

「家で資料を読んだり、庭の手入れをしたり。……優菜さんが来てくれる日以外は、だいたい一人で静かに過ごしています」


「……一人で」


 その言葉が、胸の奥を小さく刺した。

 この人は、私が来ない日は、この広すぎる家でずっと一人で静けさを飼っているのだ。


「もったいないです」

「もったいない、ですか」

「夏ですよ。八月ですよ」

「そうですね」


 桐生さんが少しだけ笑う。

 でも、その笑い方はどこか自嘲気味だった。


「一人でどこかへ行くのも、少し気後れしてしまって」


 その顔を見た瞬間、私の理性は吹き飛んだ。


「じゃあ……海、行きませんか」


 言ったあとで、自分で固まった。

 リビングに沈黙が落ちる。キッチンの換気扇の音だけがやけに大きい。


 桐生さんは持っていたグラスをテーブルに置いた。

 それから視線を少しだけ窓の外へ逃がして、一度、小さく喉を動かす。


「……海、ですか」

「はい。気分転換です。ほら、このレモンだって元々は太陽を浴びて育ったわけですし、海辺でレモンスカッシュを飲んだら、その……レモンも報われるかなって」


 言いながら、自分で何を言っているのか分からなくなる。

 レモンが報われるって何。誰か私の恋愛偏差値を再起動して。


「それに、江ノ島の方なら近いですし。散歩だけでも、気分は変わると思います」


 必死に言葉を継ぎ足しながら、私は拳を握りしめた。

 断られる。絶対に断られる。私は今すぐこの保冷バッグの銀色の内側に頭を突っ込んで、そのまま消えたい。


 床の木目を見つめたまま、一、二、三、と数え始めた時だった。


「……いいですね」


「……えっ?」


 顔を上げると、桐生さんが少し耳の付け根を赤くして、困ったように笑っていた。


「ちょうど、僕も海が見たいと思っていました。一人ではなかなか行く気になれませんでしたが……優菜さんと一緒なら、行ってみたいです」


 心臓が、熱帯夜のエアコンよりずっと忙しく動き出す。


「ほ、本当ですか!? じゃあ、来週の土曜日……とか、どうでしょうか!」

「はい。空けておきます」


 桐生さんはそこで一度だけ間を置いた。

 その短い沈黙のあと、少し視線を泳がせてから、静かに続ける。


「……楽しみにしています、優菜さん」


 その小さな“ため”が、ずるい。

 私の心拍数は軽々と限界を突破した。


     *


 それからの時間は、正直あまり覚えていない。

 いつも通り庭の手入れをして、桐生さんが焼いたトーストを食べて、何を話したのかも曖昧なまま、私はふわふわした気分で玄関へ向かった。


「じゃあ、優菜さん。また来週」

「はい! また来週!」


 桐生さんの家を出て、真夏の熱風の中へ踏み出す。

 アスファルトの陽炎が揺れているのに、さっきまでの不快感はどこにもなかった。


 駅までの道すがら、私はスマホを取り出してカレンダーアプリを開く。

 これまで「庭の手入れ」とだけ機械的に打ち込んでいた無機質な予定を消して、新しく入力した。


 **海に行く**


 たった四文字なのに、ひどく個人的で、浮ついていて、少し眩しい。


(……とりあえず、報告しないとあの女がうるさいな)


 私は由紀を思い浮かべながらメッセージを送る。


『海への口実、成功。レモン、報われた』


 一分も経たずに返信が来た。


『判定:イエローカード。浮かれすぎ。水着の現実を忘れてる』

『……でも、おめでとう』


「水着……」


 その単語を見た瞬間、私は駅のホームで立ち尽くした。

 海に行くということは、水着を着る可能性があるということか。いや、散歩だけでもいいはずだ。

 でも、海だぞ。人類がだいたい浮かれる場所だぞ。もし桐生さんが「少し海、入りますか」なんて言ったら――


 私の頭の中で、新しい警告灯が激しく点滅し始める。

 けれど、それは昨夜の「絶望の既読」とは違った。


 二人の境界線が、波打ち際みたいにじわじわと書き換えられていく。


 不意に、指先から微かにレモンの匂いがした。

 朝、一生懸命に瓶を拭いた時の名残だ。


 鼻をかすめる甘酸っぱい香りに、私はようやく認める。

 私の心ももう、とっくに馴染み始めていたのだと。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


レモンを届けるために訪れたはずが、優菜は思い切って拓也を海へ誘いました。


不器用な口実でしたが、拓也もまた、


「優菜さんと一緒なら、行ってみたいです」


と、その誘いを受け取ってくれます。


毎朝同じ電車に乗るだけだった二人が、初めて約束して出かける夏の日。


カレンダーに入力された「海に行く」という四文字は、優菜にとって、二人の関係が確かに前へ進んだ証になりました。


次話「八月の熱」では、江の島で迎える二人きりの一日。夏の暑さの中で、拓也の気持ちがさらに分かりやすい形で表れ始めます。

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