第17章:八月の熱
優菜が勇気を出して取りつけた、拓也との海への約束。
江の島、水族館、稲村ヶ崎の夕陽。
初めて二人きりで過ごす夏の日に、これまで知らなかった拓也の表情と、言葉にしきれない優しさが、優菜の心をさらに熱くしていきます。
期待しすぎるのは毒だ。
けれど、期待すらできないのは、たぶんもっとつらい。
八月下旬。江の島弁天橋の上。
海風は涼しさよりも、湿った熱を運んでくる。アスファルトの照り返しは強く、昨夜ほとんど眠れなかったまぶたの裏までじりじりと炙ってくるようだった。
デート服を決めきれず、一人ファッションショーを深夜まで開催した報いである。
「優菜さん、大丈夫ですか? 顔が赤いですよ」
隣を歩く桐生拓也さんは、この酷暑の中でも相変わらず涼しげだった。
麻のシャツの袖を軽く捲り、日に焼けた手首に使い込まれた時計が光っている。眩しそうに目を細めるその横顔は、夏の光を浴びるほど輪郭が深くなる気がした。
(……だめ。直射日光で桐生さんの色気まで増してる)
「だ、大丈夫です。たぶん、命が燃えてるだけなので」
「それは頼もしいですね。でも、無理は禁物です」
桐生さんが小さく笑って、スラックスのポケットから一枚のハンドタオルを取り出した。
「よかったら、使ってください。下ろしたてですから」
差し出された白いタオルの端には、つぶらな瞳をした青い波頭のキャラクターが刺繍されていた。
(……ふじキュン)
あまりに予想外で、私は一瞬まともに呼吸ができなかった。
洗練された桐生さんの持ち物に、この愛くるしい「ふじキュン♡」。その事実だけで、心のどこか柔らかい場所がくすぐられる。
「姪に勧められて買ったんですが、肌触りが良くて。……変、ですか?」
「い、いえ。全然。すごく……かわいいです」
震える手で受け取って頬に当てると、柔らかな布の感触と一緒に、桐生さんの家のリビングを思い出すような、あの落ち着く香りがした。
江の島神社の階段を上る。
桐生さんは私の歩幅に合わせて自然に速度を落としてくれた。段差のたび「足元、気をつけて」と、触れるか触れないかの距離に手が添えられる。そのさりげなさが、余計に胸に響く。
「優菜さん、あそこが稚児ヶ淵ですよ。帰りに寄ってみましょうか」
「あ、本当だ……綺麗」
海の青が、石段の隙間からきらりと覗く。
見慣れたはずの夏なのに、今日は何もかもが少しだけ輪郭を増して見えた。
*
仲見世通りの店で、しらす丼を食べた。
宝石みたいに光る生しらすを口に運ぶたび、潮の香りと冷たさが舌の上に広がる。目の前の桐生さんは穏やかに箸を動かしながら、時々こちらを見ては小さく目を細めた。
「美味しいですね」
「はい。……なんだか、夏を食べてるみたいです」
「それ、いい表現ですね」
そう言って笑う声まで、妙に低くて心地いい。
店を出たあと、お土産屋の店先に並ぶ「ふじキュン」グッズに私が目を留めると、桐生さんは何でもない顔でその中の小さなキーホルダーを二つ手に取った。
「はい、これ」
「……え?」
「お揃い、にしましょう」
言葉の意味は理解できた。
でも、理解したくなくて、私は数秒固まった。
(お揃い)
桐生さんは照れたように視線を逸らしながら、そのまま会計を済ませてしまう。
私は受け取った小さな「ふじキュン」を見つめたまま、胸の奥がじわじわ熱くなるのを感じていた。
*
次に入ったのは、えのすい――新江ノ島水族館だった。
大水槽の前では、青い光がゆっくりと揺れ、群れをなす魚たちがひとつの呼吸みたいに流れていく。人混みの中で、桐生さんは自然に私の背後へ回り、ぶつからないように守るみたいな位置に立った。
近い。
近いのに、押しつけがましさはまるでない。
背中のすぐ後ろにある体温と気配だけが、静かに私を包んでいる。
クラゲの展示コーナーでは、半透明の影が青い水の中をゆっくりと脈打っていた。
まるで時間そのものが柔らかくなったみたいな光景の前で、桐生さんが低く呟く。
「綺麗ですね……」
「ええ。……時が止まったみたいです」
私がそう言うと、桐生さんは一瞬だけこちらを見た。
その視線は短かったのに、不思議なくらい長く胸に残った。
*
夕方、江ノ電に揺られて稲村ヶ崎へ向かう。
車窓の向こうを流れる海は、昼の強い青から少しずつ色を変え始めていた。四人掛けの席で、私たちは向かい合って座った。膝の近さに落ち着かないのは私だけなのか、桐生さんは静かな顔で窓の外を見ている。
私がふじキュンのキーホルダーを指先で弄んでいると、桐生さんが口元だけで笑った。
「ふじキュンが、自分だけを見てほしいって言ってるのかもしれません」
「……桐生さん、冗談の切れ味まで上がってませんか?」
少し茶目っ気のあるその言い方が、私にはたまらなく新鮮だった。
仕事帰りの電車では見えなかった顔。湘南の風の中でだけ少し緩む、この人の表情。そういうものを一つ知るたび、恋が前に進んでしまう。
*
稲村ヶ崎のカフェのテラス席。
ストローを伝う氷がカランと鳴り、グラスの中でレモネードの泡がきらめく。海から吹く風はまだ温かいのに、夕方の匂いを少しずつ含み始めていた。
帰りたくない、と思う。
その気持ちを、今日は何度も飲み込んでいる。
言葉にしてしまったら、途端に子どもみたいになる気がして。
最後に、私たちは公園のベンチに並んで座った。
目の前には、遮るもののない大海原。水平線に、真っ赤な太陽が沈もうとしている。
「……すごい」
「ええ。江の島のシルエットが、影絵みたいですね」
海も、空も、島影も、少しずつ輪郭を溶かしながら夕暮れの色に沈んでいく。
隣に座る桐生さんの横顔もまた、その光の中で静かに影絵の一部みたいになっていた。
キスもしない。
手も握らない。
なのに、これ以上ないくらい満たされている。
太陽が水平線に飲み込まれた瞬間、あたりに静けさがすとんと落ちた。
波の音だけが、少し遠くで規則正しく続いている。
「優菜さん」
「はい」
「今日は、誘ってくれてありがとうございました。……一人で見る夕陽より、ずっと鮮やかに見えます」
桐生さんがこちらを向く。
夕陽の残り火みたいな光が、その瞳の奥にまだ残っていた。
「またこうして、季節が変わる頃にでも、一緒にどこかへ出かけられたら嬉しいです」
胸の奥が、静かに、でも確実に揺れた。
それは派手な告白なんかじゃない。けれど、次があることを当然みたいに言ってくれる、その優しさがどうしようもなく嬉しい。
「……はい。私も、また桐生さんと歩きたいです」
それだけ言うので精一杯だった。
本当は、もっと大人っぽく返したかった。今日より少し余裕のある女でいたかった。なのに口から出たのは、まっすぐすぎる本音だけだった。
でも桐生さんは、それを笑わなかった。
むしろ、どこか愛おしそうに、今日一番やわらかな笑みを見せた。
夕陽が消え、空がゆっくりと濃い紫に染まっていく。
それはデートの終わりというより、二人の間に新しい栞が一枚、そっと挟まれたみたいな夜の始まりだった。
指先から微かにする、レモンと新しいタオルの匂い。
私は、プレゼントされたふじキュンをぎゅっと握りしめた。
八月の熱は、まだ、冷めそうにない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
お揃いのふじキュン、青い水槽、稲村ヶ崎の夕陽。
手をつなぐことも、キスをすることもなかった二人ですが、同じ景色を見て、同じ時間を惜しむ気持ちは、もう十分に特別なものでした。
そして拓也が口にした、
「またこうして、一緒にどこかへ出かけられたら嬉しいです」
という言葉。
次の約束を当然のように望んでくれたことが、優菜にとって何より嬉しい答えになりました。
けれど、幸せな夏の余韻が残る中、優菜の前には大きな転機が訪れます。
次話「祭りのあと」では、シンガポール赴任という夢に近づく機会と、始まりかけた恋との間で、優菜の心が揺れ始めます。




