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冬のレモン、キャメルの背中 ~満員電車で私を守ってくれた十九歳上の彼に、ゆっくり恋をしました~  作者: ちょこまろ


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第18章:祭りのあと

江の島で過ごした夏の日が、優菜の中に甘い余韻を残していました。


けれど、恋がようやく動き始めたその時、シンガポール赴任という大きなチャンスが舞い込みます。


夢に近づく未来と、離れたくない人。


優菜がその話を打ち明けた時、拓也が返したのは、あまりにも正しい言葉でした。

 人は、幸せが続きすぎると少しだけ油断する。


 九月上旬。残暑の厳しいオフィス。

 私は、拓也さんからもらった「ふじキュン」のハンドタオルをデスクの引き出しに忍ばせ、仕事中、こっそり指先でその端をなぞっていた。


(……今ごろ、拓也さんの方のキーホルダーはどこに付いてるんだろう)


「……優菜。さっきから顔がゆるみすぎ。仕事して」


 隣の席から、由紀の冷たい声が飛んでくる。


「してるわよ」

「画面見なさいよ。全角の『あ』が無限に並んでる」

「……あ」


 私は慌ててキーボードから手を離した。

 脳内ではまだ、えのすいの青い光と、稲村ヶ崎の夕陽と、拓也さんが言った「また」が、最高画質のまま再生され続けている。


 そんな時だった。

 上司の佐藤部長が、珍しく神妙な面持ちで私のデスクに歩み寄ってきた。


「朝比奈さん、ちょっといいかな。会議室で」


 背筋が冷えた。

 何かやらかしたのかと思った。さっきの「あああああ」が監査対象になったのかと一瞬本気で疑った。

 でも、会議室で待っていたのは叱責ではなかった。


「シンガポール支社のデリバティブ部門のヘッドから、君をアソシエイトとして呼びたいと指名が来ている。期間は二年。向こうのマーケットを直で経験できる、かなり大きなチャンスだ」


 シンガポール。


 その響きだけで、本来なら胸が跳ねて当然だった。

 アジアの最前線。外資にいる人間なら、一度は目標にする場所。入社以来、ずっと「いつかは」と思ってきた場所。


 なのに。


 私の指先には、さっきまで触っていたタオルの柔らかさがまだ残っていた。

 やっと、本当の恋が始まりかけたところなのに。


「返事は一週間待とう」


 部長の声が、冷房の効いた会議室に乾いて響いた。


 私は頷いた。

 頷くしかなかった。


     *


 その日の夜。

 仕事帰りに待ち合わせた拓也さんは、私の顔を見るなり、やわらかく目を細めた。


「優菜さん、何かありましたか? せっかくの『ふじキュン』が泣いてますよ」


 そう言って、自分の鞄の裏側にひっそり付けたお揃いのキーホルダーを揺らして見せる。

 そのさりげない優しさが、今夜はかえって胸に痛かった。


「……拓也さん。あの、お話ししたいことがあって」


 私たちは、いつもの隠れ家みたいなイタリアンに入った。

 運ばれてきた前菜のカルパッチョも、今夜の私にはほとんど味がしない。

 グラスの脚を持つ指先だけが妙に冷えていた。


 私は意を決して、シンガポールの話を切り出した。


 拓也さんは、持っていたワイングラスを置いた。

 グラスの縁をなぞる指先が、ほんの一瞬だけ止まる。

 でも、それだけだった。次の瞬間には、もういつもの静かな顔に戻っている。


「シンガポール、ですか」


 短い沈黙のあと、拓也さんはゆっくりと頷いた。


「……それは、すごいことですね」


 声は、驚くほど整っていた。

 最初から、それが正しい返事だと知っていた人の声だった。


「デリバティブのヘッドから指名なんて、優菜さんの実力が正当に評価された証拠です。外資に身を置く人間として、これ以上ない話だと思います」


 私は、テーブルの上のナイフの反射を見つめたまま、何も言えなかった。


「二年なんて、長い人生で見れば一瞬です」


 拓也さんはそこまで言って、一度だけ視線を落とした。

 カトラリーの脇に置かれた紙ナプキンの端を、指先で静かに折る。


「僕も、優菜さんのキャリアの邪魔はしたくない」

「……」

「全力で応援しますよ」


 その言葉は、あまりにも正しくて、あまりにもきれいだった。


 きれいすぎて、少し冷たかった。


「……ありがとうございます、拓也さん。そう、ですよね。チャンス、ですもんね」


 私は無理やり口角を上げて、ワインを流し込んだ。

 喉を通る液体は冷たいのに、胸の奥だけがじくじく熱い。


「……優しいですね。拓也さんは、いつも」


 精一杯の当てこすりだった。

 でも彼は、困ったように笑うだけで、それ以上は何も言わなかった。


     *


 店を出て、駅までの道を歩く。

 九月の夜風は、江の島の熱を少しずつ奪い始めていた。


 拓也さんは、私の少し後ろを歩きながら、ふと呟いた。


「優菜さん」

「はい」

「……いえ、なんでもありません」


 そのあとに少しだけ間があって、彼は前を向いたまま続けた。


「九月の夜は、少し寂しい匂いがしますね」


 街灯の下で見えた横顔には、一瞬だけ、夕陽に溶けそうだったあの時よりも脆い影が差していた。

 私はその影に気づいたのに、気づかないふりしかできなかった。


     *


 帰宅後、私はベッドに倒れ込み、ふじキュンのタオルに顔を埋めた。


「……バカ」


 怒っているのか、悲しいのか、自分でもよく分からない。

 ただ、あんなに物分かりよく送り出されるくらいなら、少しでいいから困ってほしかった。少しでいいから、行かないでと思ってほしかった。


 タオル越しの息が熱い。

 目を閉じると、イタリアンのテーブルの上で止まった指先と、九月の夜の横顔ばかりが浮かぶ。


     *


 一方その頃。

 拓也は自室のベランダで、街の明かりを見下ろしていた。

 手の中には、あの青いキーホルダー。


 指でふじキュンの輪郭をなぞってから、静かに目を閉じる。

 胸の奥には、自分でも持て余すような重さがあった。


 本当は、その細い肩を抱き寄せて「行かないでくれ」と言いたかった。

 でも、自分には彼女の翼を折る権利なんてない。

 そう言い聞かせるしかなかった。


 拓也は一人、グラスを傾けた。


「……大人って、不便だな」


     *


 翌朝。

 オフィスに出勤した私に、目の下にクマを作った由紀が詰め寄った。


「で、どうだったのよ。拓也さんの反応」

「……『すごいチャンスですね』って。完璧に応援された」


 私が力なく答えると、由紀は盛大にため息をついた。


「あのね、優菜。男の『応援する』は、半分くらい『寂しくて死にそうだけど格好つけてる』の翻訳よ」

「え……そうなの?」

「そうよ。特にあの年代の、仕事できる系の男は厄介なの。好きな女の前でほど、物分かりのいい顔をしたがるの」


 由紀は私の机に手をついて、ぐっと顔を寄せた。


「拓也さんの『応援』、あれ本心だけでできてると思う?」

「……」

「思わないでしょ。あんた、自分で見てきた顔なんだから」


 その言葉に、私の心拍が少しだけ跳ねた。


 もし。

 もし本当に、拓也さんが無理をして笑っていたのだとしたら。


 私はデスクの上のレモン色の付箋を引き寄せた。

 ペン先が、ほんの少しだけ震える。


 そして、小さく書いた。


『今日、もう一度だけ会えませんか? 社会人力抜きで』


 幸せの速度が上がれば上がるほど、見落としていた未来の影が長く伸びていく。

 でも、その影の中にこそ、本当の言葉が隠れているのかもしれない。


 九月の入口は、思っていたよりずっと冷たかった。

 それでも私は、その先にある秋へ、もう一度だけ手を伸ばしたかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


シンガポール赴任は、優菜がこれまで努力してきたからこそ得られた、大きな機会です。


だから拓也は、寂しさを隠して彼女の未来を応援しました。


けれど優菜が欲しかったのは、物分かりのよい正解だけではありませんでした。


少しくらい困ってほしい。

離れたくないと思ってほしい。


互いを大切に思うからこそ、本音を飲み込み、すれ違ってしまった二人。


次話「罪の影」では、拓也が自分の正しさの裏に隠していた恐れと向き合います。優菜が差し出した「社会人力抜きで」という言葉に、彼はどんな答えを返すのでしょうか。

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