第19章:罪の影
優菜の未来を尊重し、笑顔で送り出すこと。
それが正しい大人の答えだと、拓也は思っていました。
けれど、その優しさの裏には、再び大切な人を失うことへの恐れと、自分だけが傷つかずに済む場所へ逃げたい気持ちが隠れていました。
優菜から届いた「社会人力抜きで」という言葉に、拓也は初めて、自分の本音と向き合います。
九月下旬。
大手町の夜は、ビルの窓から漏れる無機質な光と、冷たさを帯び始めた風が入り混じっていた。
京橋のゼネコンを出た拓也は、そのまままっすぐ帰る気になれず、頭を冷やすように大手町まで歩いた。
ここには、仕事の喧騒とも湘南の穏やかさとも違う、誰かの人生の「途中」だけが集まるような静けさがある。
路地裏の馴染みの喫茶店に入る。
琥珀色の照明が、ひどく疲れた自分の影をカウンターに落とした。
拓也は席に着き、ジャケットの内ポケットからレモン色の付箋を取り出す。
『今日、もう一度だけ会えませんか? 社会人力抜きで』
優菜の、まっすぐで、少し急いだような筆跡。
昨夜、京橋のレストランで彼女に見せたのは、四十六歳の男としての「正解」だった。
シンガポール行きを笑顔で応援する。キャリアを尊重する。それが大人としての誠実さであり、彼女の未来を汚さない方法だと、自分に言い聞かせた。
けれど、この小さな紙切れ一枚が、その正しさの薄さを暴いてしまう。
(……結局、僕は怖かっただけだ)
十年前、最愛の妻を亡くしてから、拓也の時間は表面だけ静かに流れ、奥の方ではずっと止まったままだった。
誰かを深く想えば、失う怖さも同じだけ増える。
だから、物分かりのいい顔をしていればいいと思っていた。相手の未来を優先する大人でいれば、自分は傷つかずに済むのだと。
だが、優菜はその冷えた場所に、何の遠慮もなく熱を持ち込んだ。
笑いながら。転びそうになりながら。まっすぐこちらを見上げながら。
(行ってほしくない)
その本音だけが、喉の奥でずっと動かない。
「……相変わらず、分かりやすいわね。拓也」
背後からかけられた声に、拓也は反射的に付箋を伏せた。
振り返ると、仕事帰りの険しさを少しだけ瞳に残した紗希が、呆れたように立っていた。
「紗希か」
「何その顔。校了明けの私より疲れてるじゃない」
紗希は隣の席に腰を下ろし、拓也の顔と、伏せられた付箋を交互に見た。
「で? また一人で勝手に正解出して、勝手に沈んでるんでしょ」
「……優菜さんに、シンガポール行きの話が来た」
「へえ」
「二年間。向こうで、大きな仕事を任されるらしい」
「それで?」
「応援すると言った」
そこで言葉が止まる。
続きはもう、自分でもよく分かっていた。
紗希は小さく頷いた。
「ふうん」
「……彼女のキャリアを邪魔したくない。それは本当だ」
「うん」
「でも」
「うん」
拓也は、水のグラスに映る自分の指先を見た。
少しだけ震えている。
「それだけじゃない」
紗希は何も急かさなかった。
ただ、黙って次の言葉を待っている。
「行ってほしくない」
「……」
「離れたくない。二年なんて一瞬だって言ったけど、僕には長い。長すぎる」
「うん」
「向こうで、新しい場所で、新しい人たちに囲まれて……僕のことなんて、すぐに忘れてしまうんじゃないかって。そんなことまで考える」
口に出してしまうと、その感情は思っていた以上に子どもじみていて、みっともなかった。
でも、みっともないままの形でしか出てこなかった。
紗希は一度だけ目を伏せて、それから短く息をついた。
「やっと言った」
「……情けないな」
「情けないけど、本音でしょ」
「本音だ」
拓也は認めた。
認めてしまえば、もうきれいな言葉でごまかす余地はなかった。
「でも、それを言う資格が自分にあるのか分からない」
「資格?」
「行くなと縋る資格だよ」
紗希はその言葉を聞いて、少しだけ眉を上げた。
「別に、縋れって言ってるわけじゃないの」
「……」
「でも、『応援してる』って綺麗にまとめて、自分の本音を一個も出さないのは、ただいないのと同じでしょ」
その一言は、静かだったのに、妙に深く刺さった。
「相手のため、キャリアのため。もちろんそれも本当なんだろうけど、半分は自分が傷つきたくないだけじゃないの」
「……ああ」
「でしょ」
紗希はコーヒーを一口飲んで、カップを置いた。
「彼女が知りたいのは、正しい答えじゃなくて、あんたの気持ちなんじゃないの」
「……」
拓也は伏せた付箋を、もう一度見た。
『社会人力抜きで』
理屈ではない。
正解でもない。
逃げずに出す言葉だけが、今は必要だったのだ。
「僕は、また同じことをするところだった」
「そうね」
「大人であることを盾にして」
「そうね」
「困らせないように、邪魔しないように、正しい顔をして」
「うん」
「……それで、自分だけは安全なところに立とうとしてた」
紗希は少しだけ口元を緩めた。
「その自覚があるなら、まだ大丈夫」
「何が」
「やり直せるってこと」
喫茶店の奥で、カップが触れ合う小さな音がした。
コーヒーの匂いが流れる。そんな些細なものばかりが、今夜はやけにはっきり耳に入る。
「紗希」
「なに」
「ありがとう」
「別に」
紗希はそっけなく答えて、それから付け加えた。
「弘明寺に行くなら、さっさと行きなさい。私のコーヒー代だけ置いて」
「……相変わらずだな」
「褒め言葉として受け取っとく」
拓也は思わず小さく笑った。
その笑いは、今夜になって初めてちゃんと自分の口から出たものだった。
伝票を掴み、立ち上がる。
もう、綺麗な正解はいらない。社会人として整った返事も、年上の余裕も、今の自分には邪魔なだけだ。
「あら、ほんとに行くの」
「ああ。今行かなきゃ、また逃げる」
代金を置いて店を出る。
夜の大手町。タクシー待ちの列。拓也は迷わず先頭の車に乗り込み、行き先を告げた。
「弘明寺駅の近くまで。急いでください」
走り出したタクシーの窓の外で、無数の光が糸みたいに流れていく。
ポケットの中の付箋が、指の熱でくしゃりと鳴った。
臆病な自分は、まだ消えていない。
失うのは、今でも怖い。
それでも、その怖さごと抱えたまま会いに行くしかないのだと、ようやく分かった。
拓也はスマホを取り出し、短く打った。
『今から行きます』
送信した瞬間、十年前から止まっていた時間が、ほんの少しだけ、自分の足で前へ動いた気がした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「応援する」という言葉は、決して嘘ではありませんでした。
それでも拓也は、その正しさを盾にして、
行ってほしくない。
離れたくない。
忘れられるのが怖い。
という本音を隠していました。
相手を困らせないことと、自分の気持ちを何も伝えないことは違う。
紗希の言葉によって、自分がまた傷つくことから逃げようとしていたと気づいた拓也は、ようやく優菜のもとへ向かいます。
次話「弘明寺の夜」では、年上の余裕も、物分かりのよい正解も捨てた拓也が、優菜に隠していた本当の気持ちを伝えます。




