第20章:弘明寺の夜
「社会人力抜きで、もう一度だけ会いたい」
優菜のその言葉を受け取った拓也は、正しい答えも、年上としての余裕も捨てて、弘明寺へ向かいます。
離れてほしくない。
けれど、優菜の未来も奪いたくない。
今回は、怖さを抱えたまま、それでも逃げずに差し出す拓也の本音のお話です。
夜の首都高を走るタクシーの窓に、流れる光が筋になって映っていた。
東海道線の速い光と、江ノ電の遅い時間が、夜のガラスの上で一瞬だけ交差する。
拓也は背もたれに深く身体を預けたまま、ポケットの中の付箋を指先で確かめた。
『今日、もう一度だけ会えませんか? 社会人力抜きで』
小さな紙なのに、妙に熱を持っている気がする。
目を閉じると、いくつかの場面だけが、暗い瞼の裏に浮かんだ。
十二月のホームで、背中越しに伝わった小さな体温。
一月の雨の朝、真っ白に曇った眼鏡の向こうから聞こえた、裏返った「おはようございます」。
東京駅で手渡した焙じ茶を、両手で大事そうに抱えていた指先。
台風の夜のタクシーで、初めて交換した名前。
庭のレモンを持ち込んで、「社会復帰させます」と真顔で言ったあの声。
江ノ島の夕陽の前で、また一緒に歩きたいと願った、あの静かな時間。
どれも、ほんの短い場面だった。
なのに、気づけばその一つ一つが、自分の凪いだ時間の中に静かに沈んで、いつの間にか底の形を変えていた。
(……結局、僕は怖かっただけだ)
彼女の未来を尊重したい。
それは本当だ。
でも、それと同じだけ、遠くへ行ってほしくなかった。離れてほしくなかった。向こうの光の中で、自分のことなど忘れられてしまうのが怖かった。
なのに昨夜の自分は、その怖さを綺麗な言葉で包んで、まるで立派な大人みたいな顔をしていただけだ。
タクシーが大きくカーブを切る。
拓也はスマホを取り出し、弘明寺の公園の位置をもう一度確かめた。
待っていてくれるだろうか。
こんな時間に呼び出して、まだ間に合うだろうか。
それでも、今行かなければ、また同じように取り繕って逃げることになると分かっていた。
*
タクシーを降りると、九月の夜風がシャツを冷たく揺らした。
弘明寺の公園は、住宅街の灯りに囲まれてひっそりと沈んでいる。ブランコの鎖が風に鳴って、乾いた小さな音を立てていた。
街灯の下に、優菜がいた。
肩を小さくすぼめて、スマホを両手で握ったまま立っている。
その姿を見つけた瞬間、拓也の胸の奥で何かが痛いほど強く脈打った。
「優菜さん」
優菜が顔を上げる。
その目が大きく揺れた。
「桐生……さん……」
息を切らして駆け寄った拓也を見て、優菜は一歩も動けないまま立ち尽くした。
現実だと分かっているのに、どこか信じきれないような顔だった。
拓也は彼女の前で立ち止まり、乱れた呼吸を整えるより先に言った。
「ごめんなさい」
優菜の睫毛が、わずかに震える。
「昨日の僕は、卑怯でした」
一歩、近づく。
優菜が小さく息を呑む。
「君のキャリアを尊重したいのは本当です。シンガポールが大きなチャンスだというのも、本当にそう思っている」
「……」
「でも、それだけじゃない」
拓也はそこで、いったん言葉を切った。
公園の向こうで車の走る音がして、すぐに遠ざかっていく。
「……怖いんです」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
「君が遠くなるのが、たまらなく怖い。二年なんて一瞬だと言いましたけど、僕には長い。長すぎる。向こうで君が僕のことを忘れてしまうんじゃないかって、そんなことまで考えました」
優菜の唇が、かすかに開く。
でも声にはならない。
「だから、綺麗に応援する顔をしていた。正しいことを言っていれば、傷つかずに済むと思っていたんです」
「……」
「でも、それは違った」
拓也はようやく、彼女の目をまっすぐ見た。
「行ってほしくない。離れたくない。……それが、僕の本音です」
優菜の目が、ゆっくりと潤んでいく。
その変化を見届けながら、拓也は続けた。
「それでも」
夜風が二人のあいだを抜ける。
少し冷たいその風の中で、拓也ははっきりと言った。
「君が飛べない方が、もっと嫌なんです」
優菜の頬に、ひとすじ涙が落ちた。
「シンガポールへ行ってきてください。君の才能が、世界で試されるのを見たい。……その代わり、僕はここにいます」
壊さないように、拓也はそっと彼女の肩に手を置いた。
「君が向こうでどんなに迷っても、帰ってこられる場所でいたい。離れている間も、ここで待っていたい」
「……」
「それが、今の僕の本音です」
告白というには、あまりにも静かな言葉だった。
けれどそれは、「行ってこい」と「戻ってこい」を同時に差し出す、逃げ場のないほどまっすぐな言葉だった。
優菜の目から、堪えていた涙が次々と零れ落ちる。
「……ずるいです」
ようやく出た声は、涙でひどく掠れていた。
「そんなの、ただの応援じゃない……」
「うん」
「そんなの、もう……帰る場所をくれるって言ってるのと、同じじゃないですか……」
拓也は、少しだけ困ったように笑った。
「社会人力抜きで、って言われたので」
「……はい」
「もう、一滴も残ってないです」
その言い方が、この場に似つかわしくないくらい不器用で、優菜は泣きながら小さく笑ってしまった。
「……私、怖かったんです」
「うん」
「桐生さんが完璧すぎて。ちゃんと応援されて、ちゃんと送り出されて、それで終わるんじゃないかって」
「……」
「私だけが好きで、私だけが寂しくて、私だけが置いていかれるのかと思って……」
最後の言葉は、ほとんど嗚咽に崩れた。
「置いていきません」
今度の返事は、早かった。
「絶対に」
その短さが、妙に熱を持って胸に落ちる。
拓也は、泣き出した優菜を今度は迷わず腕の中へ引き寄せた。
銀縁の眼鏡が胸元に当たる。ふわりと香る髪の匂い。細い肩の震え。
その全部が、十年間凍ったままだった胸の内側を、少しずつ溶かしていく。
秋の冷たい風が二人のあいだを通り抜けていく。
けれど、その冷たさより、抱きしめた体温の方がずっと確かだった。
遠く離れることは、たぶん試練なのだろう。
それでも、今日ここで交わしたものは、ただの綺麗な約束ではなかった。
怖さごと抱えたまま、それでも帰ってくる場所でいると決めた、本音の約束だった。
街灯の下で、二人の影がひとつに重なる。
その影はまだ頼りなく揺れていたけれど、もう、ただの一時のぬくもりではなかった。
離れても、たしかに帰ってこられるもの。
今、二人のあいだに生まれたのは、たぶんそういうものだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「行ってほしくない」
「離れたくない」
拓也はようやく、優菜の前で格好の悪い本音を口にしました。
それでも同時に、彼女の才能が世界へ羽ばたくことを願い、帰ってこられる場所で待ちたいと伝えます。
引き止めるのではなく、送り出したうえで待つこと。
それは、二人が初めて交わした、恋人になるための約束だったのかもしれません。
そして優菜もまた、自分だけが好きなのではないと知り、ようやく拓也の腕の中で涙をこぼすことができました。
次話「璃の香」では、シンガポールへの出発を前に、二人が庭へ新しいレモンの苗木を植えます。




