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冬のレモン、キャメルの背中 ~満員電車で私を守ってくれた十九歳上の彼に、ゆっくり恋をしました~  作者: ちょこまろ


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第21章:璃の香

シンガポールへの出発まで、あと五か月。


優菜と拓也は、庭に新しいレモンの苗木「璃の香」を植えることにします。


優菜がいない春を迎える小さな木。


それは、離れている時間を越えて、二人が帰る未来を待つための約束になっていきます。

 ――出発まで、あと五か月。


 十月上旬。藤沢の空は、青すぎて少し困るくらいだった。

 江ノ島の潮風が、庭の隅にある大きなレモンの木をさらさらと揺らしている。その隣に、今日、新しい小さな苗木が仲間入りすることになった。


「……璃の香っていうんだって。レモンと日向夏のいいとこ取りなんだよ」


 私が苗木のポットを大事に抱えて言うと、隣に立つ拓也さんはしゃがみ込み、土の色と陽の当たり方を見て、短く言った。


「……ここがいい」

「はやい」

「日当たりがいいから」

「事実が強い……」


 でも、その即答が嬉しかった。

 この庭に、私が選んだ木を置いてくれる。言葉にしなくても、それだけで十分すぎるほど特別だった。


(……これ、勝手に『二人の木』って思ってもいいかな)


 私はスコップを握り直した。


「よし、植えよう」

「優菜さん、角度が」

「だいじょうぶ、勢いでいける!」


 ザシュッ、と景気よくスコップを振り下ろした瞬間、予想より土が柔らかくて、私はそのまま前のめりになった。

 苗木を抱えたまま尻もちをつき、しかも、さっき水を汲んだバケツに片足がきれいに入る。


「……冷たっ」

「そこに置いたのは、優菜さんですよ」

「知ってる。でも、なんで私の足は避けないの」

「無理な相談です」


 拓也さんは真顔のままそう言って、すぐ家の中へ戻った。

 数秒後、乾いたタオルを持って戻ってくる。


「……貸して。足、見せて」

「恥ずかしいからいい」

「風邪ひく」


 その言い方があまりに自然で、私はそれ以上抵抗できなかった。

 拓也さんは膝をついて、泥で濡れた足首を丁寧に拭いてくれる。タオル越しにも分かる手の温度に、変な方へ心拍数が上がって困った。


 結局、穴掘りは拓也さんの担当になった。

 彼は私の失態を笑うでもなく、黙ってスコップを入れ、深さを確かめ、土を脇へ寄せていく。その動きは静かで無駄がなくて、見ているだけで落ち着いた。


「……はい。置いて」


 拓也さんがそう言って、私の手元を見る。

 私はそっと苗木を穴へ下ろした。彼の手が、私の手の甲に一瞬だけ重なって、位置を整える。

 二人で土を戻し、最後に手のひらで軽く押さえた。


「……できた」


 小さな苗木は、まだ頼りないくらい細いのに、秋の光の中でちゃんとそこに立っていた。


「私たちの、レモンの木」


 思わずそう呟くと、拓也さんは何も言わずに、植えたばかりの璃の香を見つめた。

 その横顔に、ほんの一瞬だけ、言葉にしない寂しさがよぎる。


 春の話が、急に現実の形を持ったのだ。


「……ねえ、拓也さん。私がシンガポールに行ってる間、この子、ちゃんと見ててね」


 言いながら、自分で胸が少し痛くなる。

 十月に植えたということは、最初の芽吹きは、きっと私のいない春に来る。


「……当たり前だろ」


 拓也さんは支柱の位置を指で直しながら、低く言った。


「君がいないあいだ、この子がちゃんと春を迎えられるようにしておく。……だから、安心して行ってこい」


 その「安心して」が優しすぎて、逆にちっとも安心できなかった。

 私は植えたばかりの苗木を見つめたまま、小さく息を吐く。


(……だめだ。この人が優しいほど、離れるのが怖くなる)


 胸の奥がじんわり熱くなる。

 私はそっと拓也さんの肩に頭を預けた。


「……うん。約束だよ。帰ってきたら、このレモンで、最高に贅沢なレモンティーを飲もうね」

「……ああ。楽しみにしてる」


     *


 片付けの途中、拓也さんがスコップを立てたまま、不自然な咳払いをした。


「……優菜」

「なに?」

「三月まで……もっと会いに来ていいか」


 一瞬、意味が分からなかった。

 私は軍手を持ったまま、瞬きをする。


「え……? だって、週末は毎週会ってるじゃない」

「……足りない」

「……小学生みたいなこと言わないでください」

「小学生でもいい」


 拓也さんは真顔のまま言った。


「足りないんだ」


 その一言が、胸の真ん中にまっすぐ落ちた。

 笑えばいいのに、うまく笑えない。泣けばいいのに、泣くにはまだ幸せすぎる。そんな中途半端な熱が、喉の奥を詰まらせる。


(……そっか。寂しいの、私だけじゃなかったんだ)


「……じゃあ、どうするの」

「迎えに行く。弘明寺まで」

「恋を効率化しないで」

「効率じゃない」


 拓也さんはそこで少しだけ視線を逸らした。

 それから、観念したみたいに低い声で続ける。


「……君がいない時間が、嫌なんだ」


 ずるい。

 そんな言い方をされたら、何も言えなくなる。


 私は笑った。笑ったのに、声が少しだけ震えた。


「……うん。増やそう」

「本当に?」

「ほんとに」


 拓也さんは、ほっとしたように息をついて、それから少しだけ目尻を下げた。

 その表情があまりに素直で、私はまた胸がいっぱいになる。


     *


 夕暮れの藤沢。

 璃の香の細い影が、隣のレモンの木の影に寄り添うように伸びていた。


 付き合う、という言葉をまだ私たちは口にしていない。

 でも、毎週会う約束のさらに先を欲しがってしまうこの気持ちは、もう十分すぎるほど名前のあるものだった。


 重なった影は、ほどけないまま、次の週末の方へ静かに伸びていった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


仁美との思い出を抱く大きなレモンの木の隣に、優菜と拓也は新しい「璃の香」を植えました。


まだ細く、頼りない苗木ですが、二人にとっては、これから一緒に育てていく時間そのものです。


優菜がいない間は、拓也が春を迎えさせる。

そして帰ってきたら、その実でレモンティーを飲む。


離れる未来を前にして交わされた、静かで温かな約束でした。


そして拓也が口にした、


「足りないんだ」

「君がいない時間が、嫌なんだ」


という素直な言葉。


寂しいのは自分だけではないと知った優菜は、出発までの時間を、これまで以上に二人で重ねることを決めます。


次話「迎えに来る人」では、その約束を実行するため、拓也が思いもよらない方法で弘明寺まで優菜を迎えに来ます。

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