第22章:迎えに来る人
「もっと会いたい」と言った拓也は、その言葉を驚くほど早く行動に変えます。
仕事帰りの弘明寺で優菜を待っていたのは、古いけれど大切に手入れされた一台のボルボ。
拓也が用意した助手席は、優菜のためだけの新しい居場所でした。
十月中旬。仕事帰りの弘明寺駅。
商店街の焼き鳥の匂いを抜けて、いつもの待ち合わせ場所へ向かっていた私は、そこで思わず足を止めた。
夕闇に溶け込むような深いネイビー。
驚くほど四角い車が、静かに停まっている。
(……え)
それは、ボルボ240ワゴンだった。
お世辞にも新しい車ではない。けれど圧倒的に清潔で、古いのにくたびれていない。ちゃんと手をかけてきた人の気配が、そのまま形になったみたいな佇まいだった。
運転席から降りてきたのは、見慣れたはずなのに、最高に場違いなほど真面目な顔をした拓也さんだった。
「……拓也さん、何これ。え、誰の車?」
「……買いました」
「……はあ!?」
思わず一歩、後ずさる。
「先週『迎えに行く』って言ったばっかりじゃん!」
「……はい」
(待って。決断が早いとかいう次元じゃない。一週間でボルボ生やしてくる人、いる!?)
拓也さんは、私の動揺を真正面から受け止めるみたいに立ったまま、少しだけ視線を落とした。
「迎えに来たかったので」
「……」
「電車より、こっちの方がいいかなと思って。……あと、優菜さんを乗せるなら、ちゃんとした車がよかった」
胸の奥が、遅れてどくんと鳴る。
「……拓也さん」
「……なんですか」
「その言い方、ずるい」
「え?」
「嬉しいって言ってるの。……でも、急すぎるの!」
「……すみません」
「あと、そんな真面目な顔でボルボ買ってこないで。心臓がもたないから」
「……それも、すみません」
謝られても困る。
困るのに、笑ってしまう。
笑っているのに、泣きそうなくらい嬉しい。
(……もう、この人ほんとに何なの)
呆れながらも、私は差し出された助手席のドアを開けた。
ガチャン、と。
今の車にはない、重い金属音がした。
車内には少し懐かしい古い革の匂いと、拓也さんの体温の気配が混じっていて、不思議なくらい落ち着いた。
新品でも高級でもないのに、ちゃんと大事にされている空間だった。
「……出しますね」
「はいはい、お願いします、ボルボ拓也さん」
「……名前で呼んでください」
「え?」
「……優菜さんの席なので」
息が止まりそうになる。
いや、止まってる場合じゃない。エンジン音の向こうで、ジャズのピアノだけが何も知らない顔で流れ始めていた。
「……狭くないですか?」
「それ、今聞く?」
「……気になったので」
「大丈夫。むしろ落ち着く」
「……なら、よかったです」
車がゆっくりと動き出す。
純正のカセットデッキを改造したというスピーカーから、やわらかな重低音が響いてきた。
「あ……ジャズ?」
「……見つけたんです。藤沢へ向かうなら、もっと明るい曲でもいいかなと思ったんですけど」
「うん」
「優菜さんと二人の時は、こういう落ち着いた曲がいいかなって。……変ですか?」
「……ううん。全然」
少しだけ間を置いて、私は小さく付け足した。
「……拓也さんっぽくて、好き」
ハンドルを握る指先に、わずかに力が入る。
前を向いたままなのに、耳のあたりが少しだけ赤い。
(……だめ。今の反応まで込みで無理)
電車の喧騒から切り離された、厚い鉄板に包まれた二人だけの空間。
窓の外を流れていく弘明寺の夜景が、いつもよりずっと静かで、街の灯りがやけに鮮やかに見えた。
「……優菜さん」
「ん?」
「疲れてるなら、寄りかかってていいですよ」
「……寝ないよ。拓也さんの運転、見てたいもん」
「……それは、その、ちょっと困ります」
「なんで?」
「……緊張するので」
「もうしてるでしょ。ハンドル握る手、白くなってますよ?」
「……そんなことないです」
「あります」
冗談を言い合って、笑う。
助手席という、私の新しい定位置。
拓也さんの横顔を、いちばん近くで見ていられる場所。
(……この席、だめだ)
落ち着くのに、落ち着けない。
シートベルトの位置ひとつ、ジャズの選曲ひとつ、信号待ちの沈黙ひとつにまで心が動いてしまう。
その必死さが少し恥ずかしいのに、もう、なかったことにはできない。
「……優菜さん」
「なあに?」
拓也さんは前を向いたまま、少しだけ低い声で言った。
「……来週は、もう少し時間を作ります」
「……」
「迎えに来るから。だから……待っててください」
ずるい、と思った。
こういうところだ。この人は。
大事なことほど、不器用なくせにまっすぐ言う。
「……ふふ。そういうの、ちゃんと私にばっかり使って」
「……はい」
「……もう。ほんとに、ありがとう」
私は笑って、でもシートベルトをぎゅっと握った。
この助手席を、誰にも渡したくないなんて思ってしまう自分が、少し怖いくらいだった。
銀色の夜気を切り裂くように、ネイビーの四角い車は、オレンジ色の街灯の下を走り抜けていく。
ダッシュボードを染める橙色の光と、微かなエンジン音。今の私には、その全部が心地よかった。
「……音楽、変えましょうか?」
私の沈黙を退屈と勘違いしたのか、拓也さんが少し不安そうに聞く。
「ううん、変えないで。これがいい。これがいいの」
この一曲目を聞き逃したくなかった。
彼が私のためにこれを選んでいた時間まで、まるごと抱きしめたくなったから。
信号が赤に変わるたび、この時間が少しだけ長くなればいいのに、と私は思っていた。
この車の中だけ、外より少し時間が遅ければいいのに、と。
街路樹の影がよぎり、ピアノの旋律が静かに流れていく。
拓也さんがそっとアクセルを踏み込む。
……もう、だいぶ好きらしい。
この四角いボルボと、不器用すぎるこの人は、いつだって私にだけ、最高にずるい。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「迎えに行く」という約束のために、拓也は本当に車を買ってしまいました。
派手さではなく、古くても丁寧に手をかけられたボルボを選ぶところにも、彼らしさが表れています。
ジャズが流れる車内。
拓也の横顔をいちばん近くで見られる助手席。
そこは、満員電車の中で守られていた優菜が、今度は自分から選んで座る、新しい定位置になりました。
そして拓也の、
「迎えに来るから。だから、待っててください」
という言葉。
離れる日が近づくからこそ、二人は会える時間を惜しまず、少しずつ日常を重ね始めます。
次話「土の匂い」では、大阪出張から戻った優菜が、拓也の庭と璃の香のもとへ帰ります。そこには、離れていた数日間にも彼が大切に守っていた時間が残っていました。




