第23章:土の匂い
大阪出張を終えた優菜が戻ったのは、拓也と璃の香が待つ藤沢の庭。
離れていた数日のあいだにも、苗木は丁寧に手入れされ、二人の時間は静かに守られていました。
「ただいま」と「おかえりなさい」。
恋が特別な出来事から、少しずつ日常へ変わっていくお話です。
十月下旬。
大阪出張を終えて戻った週末の藤沢は、秋の光が少しだけやわらかくなっていた。
庭に出ると、土は前よりしっとりとしていて、レモンの葉先に朝の水が薄く残っている。
私はスニーカーのつま先で地面を軽く踏みながら、深く息を吸った。
土の匂いがした。
潮の匂いより、駅のホームの金属っぽい匂いより、ずっと静かで、ちゃんと「帰ってきた」と思える匂いだった。
「……おかえり、璃の香」
しゃがみ込んで、小さな苗木に声をかける。
たった数日見なかっただけなのに、葉の色が少しだけ落ち着いた気がした。
「それ、本人より先に木に言うんですね」
後ろから聞こえた声に振り向くと、拓也さんが庭靴のまま立っていた。
軍手を片手に持って、少しだけ呆れたように、でも目元はやわらかい。
「だって、この子にも報告しないと。私がいない間、ちゃんといい子にしてた?」
「ええ。優秀でしたよ。水も切らさなかったし、風にもちゃんと耐えてました」
「……拓也さん、それ完全に私より高評価じゃない?」
「比較対象が違います」
「でも、ちょっと悔しい」
私が唇を尖らせると、拓也さんは小さく笑って、私の隣にしゃがみ込んだ。
土の上に落ちる二人分の影が、まだ短い昼の光の中で少しだけ重なる。
「大阪、どうでした」
「忙しかった。粉もの食べる時間もあんまりなかったし」
「それは残念ですね」
「うん。でも、帰りの新幹線で、シウマイ弁当のこと思い出した」
「……それは、よかったです」
少しだけ照れたみたいに視線を逸らす、その横顔が好きだと思う。
前より、ずっと自然に。
*
庭の隅には、小さな如雨露が置いてあった。
支柱はきれいに結び直されていて、苗木の根元の土も、ほどよく柔らかい。
何も言わなくても、ここ数日、自分がいないあいだの時間が見える。
そういうところが、この人らしいと思う。
「……ねえ、これ絶対、私が来る前にいろいろ整えたでしょ」
「そんなことないです」
「嘘。土が全然やさしい」
「土にやさしいところと厳しいところの区別はありません」
「今それっぽく誤魔化した」
「してません」
真顔で返されて、私は笑ってしまう。
笑いながら、残っていた小さな草を抜く。指先に少しだけ土がついて、爪のあいだが黒くなる。そんなことをしているだけなのに、胸の奥がふしぎなくらい静かだった。
幸せ、という言葉は少し大きすぎる。
でも、安心よりは少し熱がある。
その中間みたいなものが、今日はずっと、体の内側にあった。
「拓也さん」
「はい」
「私ね、たぶん今、すごく贅沢なんだと思う」
「贅沢?」
「うん。東京でも大阪でも、シンガポールの話ばっかりされてるのに、ここに来ると、苗木の様子とか、土の乾き方とか、そういうこと考えてるから」
自分で言って、自分で少し驚く。
前の私はもっと、隙なく、効率よく、前に進むことばかり考えていた気がする。
「……悪い意味じゃなくて?」
「全然。むしろ逆。こういうことを大事にしてる自分、ちょっと好きかも」
「……そうですか」
拓也さんはそう言って、苗木の根元を指先で軽く押さえた。
その仕草があまりに自然で、まるで昔からここに二人でこうしていたみたいな気持ちになる。
*
午後になって、私たちは縁側で少し休んだ。
湯気の立つレモンティーのカップを両手で包むと、指先にじんわりと熱が戻ってくる。
「優菜さん」
「なに?」
「大阪、頑張りましたね」
ふいに言われて、私は手を止めた。
「……何それ。急に」
「ちゃんと言ってなかったなと思って」
「……今?」
「今です」
拓也さんはカップを持ったまま、まっすぐ私を見る。
その視線は押しつけがましさがなくて、だから余計に逃げられない。
「無事に戻ってきてくれて、よかったです」
たったそれだけなのに、目の奥が熱くなった。
仕事で褒められるのとは、まるで違う場所に落ちる言葉だった。
「……うん。ただいま」
「おかえりなさい」
そのやり取りだけで、十分だった。
十分すぎて、少し困るくらいに。
私はレモンティーをひと口飲む。
喉を通るやわらかい酸味が、胸の奥までゆっくり落ちていった。
「……これ、璃の香が育ったら、もっと香り変わるのかな」
「たぶん。もう少し丸くなるかも」
「丸く」
「優菜さんみたいに」
「どういう意味?」
「最初の頃より、少しだけ柔らかくなった気がするので」
「……それ、褒めてる?」
「褒めてます」
あまりに真面目に言うものだから、私はカップの縁に口をつけたまま笑ってしまった。
最初の頃。
満員電車で眼鏡を曇らせて、見知らぬ大人の男のコートに勝手に心臓を乱されていた頃。
あの頃の私が今の私を見たら、たぶん信じない。
休日に藤沢の庭で土を触って、出張帰りに「ただいま」と言って、レモンティーを飲みながら未来の木の話をしている。
そんな生活みたいなものが、自分の恋の中に入り込んでくるなんて、思ってもいなかった。
*
帰る支度をしようと立ち上がった時だった。
拓也さんが、縁側の柱に軽く手をついたまま、不自然な咳払いをした。
「……優菜」
「なに?」
「三月まで……もっと会いたい」
一瞬、意味が分からなかった。
私はカップを持ったまま、瞬きをする。
「え……? だって、週末は毎週会ってるじゃない」
「……足りない」
「……小学生みたいなこと言わないでください」
「小学生でもいい」
拓也さんは、少しも笑わなかった。
「足りないんだ」
その一言が、胸の真ん中にまっすぐ落ちた。
笑えばいいのに、うまく笑えない。泣けばいいのに、泣くにはまだ幸せすぎる。そんな中途半端な熱が、喉の奥を詰まらせる。
(……そっか。寂しいの、私だけじゃなかったんだ)
「……じゃあ、どうするの」
「迎えに行く。弘明寺まで」
「恋を効率化しないで」
「効率じゃない」
拓也さんはそこで少しだけ視線を逸らした。
それから、観念したみたいに、低い声で続ける。
「……君がいない時間が、嫌なんだ」
ずるい。
そんな言い方をされたら、何も言えなくなる。
私は笑った。笑ったのに、声が少しだけ震えた。
「……うん。増やそう」
「本当に?」
「ほんとに」
拓也さんは、ほっとしたように息をついて、それから少しだけ目尻を下げた。
その表情があまりに素直で、私はまた胸がいっぱいになる。
*
帰る頃には、空がゆっくりと夕方の色へ傾いていた。
庭に立つと、レモンの木の濃い影のそばに、璃の香のまだ細い影がちゃんと伸びている。
大きな木の隣で、小さな木も同じ方へ伸びていく。
その様子が、なんだか今の私たちみたいだと思った。
「また来週?」
私が聞くと、拓也さんは少しだけ考える顔をしてから答えた。
「……来週も。その前も、来られるなら」
「欲張り」
「はい」
「……いいよ」
そう言った自分の声が、思っていたよりずっとやわらかかった。
土の匂いがした。
生活の匂いがした。
好き、という言葉だけでは足りなくなり始めた恋の、静かな匂いだった。
私は最後にもう一度だけ、璃の香の葉にそっと触れた。
この木が根づいていくみたいに、
私の恋も、もう少しずつ「日常」の形をしていくのかもしれない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
出張から戻った優菜を迎えたのは、璃の香の葉と、拓也の「おかえりなさい」でした。
華やかなデートや告白ではなく、土に触れ、レモンティーを飲み、帰ってきたことを喜んでもらう時間。
そんな何でもないひとときが、優菜にとっては何より贅沢なものになり始めています。
そして拓也は、週末だけでは「足りない」と、もう一度素直な気持ちを伝えました。
会いたい人がいて、帰りたい庭がある。
二人の恋は、好きという言葉だけではなく、少しずつ生活の匂いを持ち始めています。
次話「東京駅のベンチ」では、大阪出張から戻る優菜を拓也が迎えます。しかしスマホの充電が切れ、人混みの中で二人は互いを探すことになります。




