第24章:東京駅のベンチ
大阪出張を終え、拓也に会えることを楽しみにしていた優菜。
けれど東京駅へ着く直前、スマホの充電が切れてしまいます。
連絡手段を失い、巨大な人混みの中で不安に飲まれかけた優菜は、それでも自分を探してくれる一人の背中を見つけます。
十月下旬。新幹線の窓の外を、夜の街が粒になって流れていく。
優菜は、空になったバッグの隅を指先でなぞりながら、ふっと小さく笑った。
(……まだ、あの庭の匂いが残ってる気がする)
大阪での二日間は、分刻みの打ち合わせと、慣れないプレゼンと、資料の修正であっという間に過ぎた。
忙しかったはずなのに、ふと気を抜くと頭に浮かぶのは、出発の朝、東京駅のホームでシウマイ弁当を差し出してきた人の顔だった。
隣の座席に置いていたスマホが震える。
由紀からのメッセージだ。
【由紀:大阪出張お疲れ! そろそろ新幹線? 自分へのお土産ちゃんと買った?】
優菜はバッグのポケットから、小さなキーホルダーを取り出した。
新大阪駅の売店で、発車五分前だというのに思わず足を止めてしまった、あの赤と青の不思議な塊。
(……最初は買うつもりなかったのに)
何を考えているのか分からない顔。
なのに、見ていると少し安心する感じ。
それが、ふと拓也に似ていると思ってしまった。
結局、二つ買った。
【優菜:買った。二個も】
【優菜:なんか、真面目な顔で黙ってる時の拓也さんに少し似てて】
【由紀:完治不能。末期の拓也病ね】
【由紀:で? 迎え来るんでしょ。ちゃんと甘えなさいよ】
優菜はスマホを握ったまま、窓に映る自分の顔を見た。
疲れているくせに、少し浮かれている顔だった。
(……会いたい)
ちゃんと顔を見て言いたい。
ありがとうも、お土産選んでる時も楽しかったも、全部。
でも「会いたかった」は、まだ無理だった。
優菜は、少しだけ迷ってから打ち込んだ。
【優菜:今から会えるの、楽しみにしてるね】
送信ボタンに触れようとした、その瞬間。
スマホの画面が、音もなく暗くなった。
「……え」
一秒、理解できなかった。
それから、ゆっくりと血の気が引く。
「……嘘。今?」
大阪で地図を開き続け、テザリングも使い、由紀とも散々やり取りした。
その積み重ねが、最後の数パーセントをきれいに奪っていったのだ。
新横浜を過ぎ、品川を過ぎ、新幹線は東京駅へ滑り込む。
連絡手段を失った瞬間、見慣れたはずの駅は、一気に巨大な迷路へ変わった。
*
ホームに降りる。
人が多い。多すぎる。
金曜夜の東京駅は、もはや駅というより巨大な濁流だった。
案内表示の黄色い文字。
スーツケースがぶつかる音。
アナウンス。
人の足音。
全部が近すぎて、うまく呼吸ができない。
(……どうしよう)
約束はしていない。
いつもの場所、と思っているベンチだって、私が勝手にそう思っているだけかもしれない。
もし、もう帰っていたら。
もし、探しても見つからなかったら。
掌の中で握りしめたキーホルダーの凹凸が、少しだけ痛かった。
人の流れに押されるまま、階段を下りる。
丸の内南口。中央通路。ベンチ。
頭の中で候補がいくつも回るのに、どれも確信が持てない。
いつもなら、拓也の隣にいれば人混みはただの背景になる。
なのに今は、自分だけが駅の構造からはじき出された異物みたいに感じた。
(……拓也さん、どこ)
その時だった。
人の波の隙間に、見間違えるはずのない背中が見えた。
広い肩。少しだけ首を前に出し、電光掲示板と改札の流れを何度も見比べている、あの立ち姿。
「……拓也さん」
声が、かすれた。
次の瞬間には、優菜はもう駆け出していた。
「拓也さん……!」
呼ばれた拓也は、弾かれたように振り返った。
そして優菜を見つけた途端、顔から一気に力が抜けた。
「……優菜さん」
それだけ言って、数秒、ほんとうに動かなかった。
魂だけ先に座り込んでしまったみたいな顔だった。
「な、何その顔……!」
「……すみません。連絡が途絶えたので、最悪のことまで考えました」
「止まってる場合じゃないでしょ……」
言いながら、自分でも声が少し震えているのが分かった。
でも、拓也の顔を見た瞬間、張りつめていたものが一気にほどけてしまったのだ。
(……あ、いた)
もう、それだけでだめだった。
拓也はようやく息をついて、優菜のキャリーバッグを無言で受け取った。
その手つきの自然さに、また泣きそうになる。
「座りましょう」
「……うん」
いつものベンチに並んで腰を下ろす。
たったそれだけのことが、どうしようもなくありがたかった。
優菜はバッグから、お土産のキーホルダーを取り出した。
「……これ。拓也さんに」
「僕に?」
「うん。大阪で見つけて。……なんか、似てるなって思って」
「これが?」
「真面目な顔して黙ってる時の感じが」
拓也は小さなそれをしばらく見つめて、それから、珍しく少しだけ肩の力を抜いて笑った。
「……たしかに、ちょっと不本意ですが、否定もしづらいですね」
その笑い方を見て、優菜の目の奥がまた熱くなる。
拓也はキーホルダーをポケットにしまうと、今度は優菜の冷えた手を包み込んだ。
大きくて、少し乾いた掌。
それだけで、自分の中の壊れかけていた何かが、静かに戻っていく気がした。
「……迷ったら、動かないでください」
「え?」
「僕が行きます」
「……」
「必ず見つけますから」
短いのに、まっすぐだった。
理屈じゃなく、そのまま胸の中心に落ちてくる言葉だった。
優菜は手を包まれたまま、そっと拓也の肩に頭を預けた。
広い肩。ウールのコート越しに伝わる体温。
こんな巨大な駅の真ん中で、自分だけ避難所に入れてもらったみたいだった。
「……次は、スマホも充電満タンで来てくださいね」
「……はい。予備バッテリーも持ってきます」
「そこまでしなくてもいいです」
「でも、持ってくる」
「……じゃあ、持ってきてください」
ふっと、二人とも笑った。
その笑いがあまりにも自然で、さっきまで泣きそうだった自分が少しおかしかった。
夜の東京駅。
人の流れは相変わらず激しいのに、そのベンチの周りだけ時間が少し遅くなったみたいだった。
世界でいちばん幸せな迷子、という言葉があるなら、たぶん今の私はそれだった。
けれど――
この時の私は、まだ知らなかった。
次の雨の日、この「見つけてもらえる」という安心が、たった数分のすれ違いでどれほど心細く崩れることになるのかを。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
連絡が途絶え、互いの居場所が分からなくなった東京駅。
ほんのわずかなすれ違いでしたが、優菜にとっては、拓也がいないだけで見慣れた場所さえ巨大な迷路へ変わってしまいました。
そんな中で拓也が伝えた、
「迷ったら、動かないでください」
「僕が行きます」
「必ず見つけますから」
という言葉。
それは単に駅で探すという意味だけではなく、これから先、優菜がどこで迷っても迎えに行くという約束のようにも聞こえます。
人であふれる東京駅のベンチは、二人にとってまた一つ、新しい帰る場所になりました。
けれど、安心を手にしたからこそ、次の小さなすれ違いは、思いがけない不安を呼び起こします。
次話「境界線の庭」では、北鎌倉と鎌倉を歩く穏やかな一日の中で、二人の距離がさらに近づいていきます。




