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冬のレモン、キャメルの背中 ~満員電車で私を守ってくれた十九歳上の彼に、ゆっくり恋をしました~  作者: ちょこまろ


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第25章:境界線の庭

北鎌倉から鎌倉へ。


特別な目的も、大きな出来事もない、二人でゆっくり歩くだけの一日。


歩幅を合わせ、同じ景色を眺め、帰りの江ノ電で肩を預ける。


穏やかな時間の中で、優菜と拓也の境界線は、言葉にしないまま少しずつ薄くなっていきます。

 十一月中旬、土曜日の午前。北鎌倉駅の改札を出ると、少し尖った冬の気配を含んだ空気が鼻先をくすぐった。

 優菜は、新調したアイボリーのニットの袖をほんの少し引きながら、隣を歩く拓也を盗み見る。


(……今日は「あえて」の北鎌倉待ち合わせ。東京駅でも藤沢でもない場所で会うだけで、もう少し大人の二人になれた気がするの、なんでだろ)


 円覚寺へと続く緩やかな坂道。乾いた落ち葉を踏む音が、二人分、静かに重なる。

 一歩、また一歩。

 ふと気づくと、肩が触れそうなくらい近い。


(……あ、歩幅、ぴったり)


 私が合わせたわけじゃない。たぶん、拓也さんが自然に寄せてくれている。

 それに気づいた瞬間、胸の奥が小さく熱を持った。


「……優菜さん。少し早いです」

「あ、ごめんなさい。私、つい」

「いえ。今日は急ぐ用事もありませんから。ゆっくり行きましょう」


 拓也はそれだけ言って、歩調をほんの少し落とした。

 説明するでもなく、手を引くでもなく、ただ隣で速度を整えてくれる。その静かさが、今の優菜にはひどく心地よかった。


 大きな事件なんて何ひとつ起きていない。

 冬に向かう風が、木々の梢を鳴らしているだけ。

 なのに、こういう何でもない時間の方が、あとで何度も思い出すのかもしれないと思った。


     *


 鎌倉駅まで移動し、小町通りの喧騒へ入る。

 甘い匂い、香ばしい匂い、色とりどりの看板。さっきまでの静けさが嘘みたいに、人の声が近い。


「わ、見て。コロッケ! ……あ、でもあっちのわらび餅も気になるし、お団子もある」

「優菜さん」

「はい」

「一気に全部は無理です」

「わかってるよ。でも、見たら全部食べたくなるの!」


 拓也は小さく息をつきながら、でも呆れた顔はしなかった。

 人の流れから優菜を少し外側へ寄せて、店先を見回す。


「……じゃあ、まずコロッケにしましょう」

「え?」

「今いちばん食べたい顔をしてるので」

「顔で決めたの?」

「はい」


 少しだけ悔しい。

 でも、笑ってしまう。

 彼は私が食べたいもの全部を管理したいわけじゃない。ただ、私がいちばん機嫌よく笑う順番を選んでいるだけなのだと、最近わかってきた。


「じゃあ、まずコロッケ。次、甘いの」

「了解しました」


 熱々のコロッケを受け取って、通りの端で並んでかじる。

 衣がさくっと鳴って、中から湯気が立つ。


「……おいしい」

「はい」


 拓也はそう言って、自分のコロッケを一口食べたあと、こっちを見る。

 私の「おいしい」にちゃんと頷いてくれる、その感じが好きだと思う。

 半分こじゃない。一人一つ。

 それもまた、この人らしい優しさだ。


     *


 江ノ電に揺られて、長谷で降りた。

 砂浜には行かず、高台から海を見下ろせる小さな公園へ向かう。


 陽の光を反射して、水面が細かくきらめいている。

 風は冷たいのに、空はまだ秋の名残を持っていて、海だけが少し先に冬へ向かっているみたいだった。


「……綺麗」

「ええ」


 並んで立つ。

 それだけで十分だった。


「拓也さん、写真撮っていいですか?」

「逆光ですね。貸してください」


 拓也は私の背後に回り込み、スマホを持つ手に、自分の手をそっと添えた。

 指先が重なる。肩のすぐ後ろに体温がある。耳元をかすめる息が、必要以上に近い。


(……近い)


 それだけなのに、足元が少し頼りなくなる。

 逃げたいわけじゃない。むしろ逆だ。

 このまま動かないでいたいと思ってしまうのが、少し困る。


 シャッター音がしても、拓也はすぐには離れなかった。

 スマホ越しではなく、同じ方向を見て、少しのあいだ一緒に海を眺める。


「……僕、こういう場所に来ると、つい効率の悪いことを考えてしまいます」

「効率?」

「ここに来るなら、あっちから回った方が混まないとか。先にこれを済ませた方がいいとか」


 優菜は笑いそうになる。あまりにも拓也らしい。


「でも」

 彼は海を見たまま続けた。

「こうして、隣で景色を見ているだけの時間が、いちばん贅沢なんだろうなとも思います」


 優菜は返事ができなかった。

 こういう言葉を、この人はたぶん狙って言わない。

 だから余計に困る。


(……だめだ。好きが静かに増えていく時の方が、逃げ場がない)


 事件なんて何もない。

 手もつないでいない。

 なのに胸の内側だけが、確実に前より深い場所へ進んでいる。


 こんなに穏やかで、こんなに幸せで。

 だからこそ、ふいに小さな不安が差し込む。


(……もし、急にこの人がいなくなったら)


 自分で考えて、自分で嫌になる。

 幸せになるほど、失う想像が上手くなるなんて、ぜんぜん嬉しくない。


 海から吹く風が、少しだけ冷たくなった。


     *


 帰りの江ノ電は、思っていたより空いていた。

 並んで座ると、電車の揺れは思ったよりやわらかくて、午後の疲れがゆっくり体に戻ってくる。


 優菜は最初、ちゃんと起きているつもりだった。

 拓也の肩に寄りかかったら最後だと思っていたし、今日はあまり甘えすぎないと、出かける前には一応決めていた。


 けれど、決めていたことなんて、揺れが規則正しく続く中ではほとんど役に立たなかった。


 こつん、と額が触れた。

 そのまま、肩に重さを預ける。


「……優菜さん」

「……起きてる」

「寝てますよ」

「……起きてる」

「そうですか」


 それ以上、何も言わない。

 肩を避けることもしない。

 その無言のまま受け止めてくれる感じが、あまりにもやさしくて、優菜はそのまま眠りに落ちた。


 拓也は、肩に寄りかかった重みを動かさないよう、窓の外を見た。

 車窓を流れる暗い街の灯り。

 自分の膝の上に置かれた優菜の手。触れるか触れないかの距離にある、その小さな指先。


 このまま時間が少しだけ止まればいいと思った。

 下手に動けば壊れてしまうような、まだ名前の途中にある幸福だった。


 ポケットの中で、スマホが一度だけ小さく震えた。

 仕事の連絡かもしれない。

 それでも今は、確かめるより先に、この肩の重みを優先したかった。


     *


 夜の鎌倉駅。

 改札へ向かう手前で、優菜はようやく完全に目を覚ました。


「……ごめん。寝てた」

「はい」

「起こしてくれてもよかったのに」

「もったいなかったので」

「何が?」

「……肩が空くのがです」


 一瞬、言葉の意味が理解できず、優菜は立ち止まった。

 拓也は言ってしまってから少しだけ視線を逸らしたが、訂正はしなかった。


(……そういうとこ。そういうとこなんだよ)


 派手な愛情表現じゃない。

 でも、その一言の方がよほど深く残る。


「楽しかったね」

「はい。また、来ましょう」

「うん」

「次は、もっと優菜さんの行きたいところを回りましょう」


 拓也はそう言って、いつもの穏やかな顔で笑った。

 その笑顔が、今夜は少しだけ危うく見えたのは、きっと気のせいじゃない。


 二人はまだ知らない。

 こういう事件のない朝や、ただ肩を貸すだけの帰り道こそ、あとになっていちばん強く心に残ることを。

 そして、その穏やかさがある日ふいに途切れた時、どれほど大きく揺れることになるのかを。


 改札を抜ける冬の夜気が、二人の背中を静かに追いかけていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


熱いコロッケを食べ、海を眺め、帰りの江ノ電で眠ってしまう。


何か特別な事件が起きたわけではありません。


けれど、拓也が優菜の歩幅に合わせ、肩の重みを手放したくないと思った一日は、二人にとってかけがえのない時間になりました。


「肩が空くのが、もったいなかったので」


派手な愛情表現ではなくても、その一言には、優菜と過ごす時間を惜しむ拓也の気持ちが込められています。


幸せが深くなるほど、いつか失うことへの不安も大きくなる。


穏やかな一日の終わりに優菜の胸をかすめた予感は、やがて小さな沈黙となって二人の間に入り込みます。


次話「夜の声」では、文章では不器用な拓也から届く、たった四文字のメッセージ。そして紗希からの意味深な連絡が、優菜の心を揺らし始めます。

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