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冬のレモン、キャメルの背中 ~満員電車で私を守ってくれた十九歳上の彼に、ゆっくり恋をしました~  作者: ちょこまろ


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第26章:夜の声

会っている時は、誰よりも優しい拓也。


けれどメッセージになると、まるで稟議書のような文章しか返ってきません。


そんな不器用な彼から届いた、たった四文字の言葉に心を温められた優菜。


しかしその直後、紗希から届いた意味深な連絡と、拓也の曖昧な返事が、優菜の胸に新たな不安を生みます。

 十一月下旬。

 鎌倉で過ごした、あの事件のない一日の余韻が、数日経ってもまだ優菜の中に薄く残っていた。


 北鎌倉の乾いた空気。

 長谷の高台で重なった手の温度。

 江ノ電の帰り、肩を貸したまま動かなかった、あの静かな重み。


(……だめ。思い出すだけで、仕事にならない)


 両手で頬を軽く叩いて、どうにか意識を引き戻す。

 デスクトップに並ぶ数字は今日も容赦なくて、マーケットは恋愛事情なんて一ミリも考慮してくれない。


 昼休み。給湯室でマイボトルを洗いながら、優菜はスマホの画面を恨めしそうに睨んでいた。

 表示されているのは、鎌倉デートの翌日に自分が送ったメッセージだ。


『昨日は本当に楽しかったです! わらび餅もコロッケも美味しかったし、海も綺麗でしたね、またすぐ行きたいな!』


 それに対する、桐生拓也からの返信がこれである。


『承知しました。私も有意義な時間でした。また調整しましょう』


「…………稟議書か」


 誰もいない給湯室で、思わず画面に向かって呟いてしまった。


(私、いつ株式会社・桐生拓也に企画書出したっけ)


 スタンプひとつない、整然とした文章。

 一文字一文字がきっちり並びすぎていて、情緒の入り込む隙がない。


 あの甘い空気は幻だったのだろうか。

 海風の中で、あんなに近くにいたのに。

 帰りの江ノ電で肩を貸してくれた、あの静かな体温は。


「どうしたの、優菜。スマホに怨念でも送ってるの?」


 背後から、猫柄のマグカップを持った由紀が覗き込んできた。


「違うの。ただちょっと……解せなくて」

「拓也さん?」

「見てよ、これ」

「あはは! 何これ。『承知しました』って。完璧な決裁文じゃない」

「笑い事じゃないよ! 私の渾身の桜スタンプが完全に浮いてるじゃん!」

「大丈夫大丈夫。こういう人って、心の中ではたぶん大騒ぎしてるから」

「どこが!?」

「『また行きたいのは僕も同じです』って百回くらい書き直して、最終的にこれしか送れなかったんでしょ。知らんけど」


 適当なのに妙に納得させる口調で、由紀は肩をすくめた。


「でもさ、優菜。あの人、会ってる時の方がわかりやすいじゃん」

「……それは、そう」

「なら、文章に情緒を期待しすぎない。以上」


 由紀はそれだけ言って、コーヒーを一口飲む。

 正論だった。悔しいけれど。


 結局その夜、優菜は『私もです!』とスタンプを一つ返して、少し不満げにスマホを閉じた。


 ――それから数日。

 やり取りは驚くほど事務的だった。


 おはようございます。

 お疲れさまです。

 今日は寒いですね。


 優菜がどんなに会話を膨らませようとしても、拓也からの返信はいつも最短距離を通る。

 そっけないわけではない。冷たいわけでもない。

 ただ、必要以上のことを足さない。


 それが拓也らしいと分かっているのに、もどかしさは消えなかった。


     *


 月末の繁忙期。

 急なトラブル対応で会社を出たのは、二十一時を優に過ぎていた。


 ビルのエントランスを出た瞬間、容赦ない北風がコートの隙間に入り込み、思わず身をすくめる。

 白い息を吐き、悴む手でスマホを取り出した。改札を抜け、ホームで電車を待ちながら通知を開く。


 未読が一件。


 そこに表示された文字を見た瞬間、優菜の足が止まった。


『着いた?』


 たった四文字。

 いつもの『帰宅されましたか?』じゃない。

 句読点も、敬語も、余計な装飾もない。


 なのに。


(……ずるい)


 その四文字だけで、顔に熱が集まる。

 普段が鉄壁の敬語だからこそ、この一瞬の崩れ方が劇薬みたいに効いた。


 『着いた?』

 たったそれだけなのに、距離が近い。

 まるで、家で帰りを待っている人の声みたいだった。


 震える指で返信を打つ。


『今、ホームです。今日は遅くなっちゃった』

『お疲れ様。あったかくして休んで。また明日』


 既読はすぐについた。

 その何気ない返事が、今の優菜にはどんな詩よりもやさしく響いた。


 短いのに、ちゃんと温度がある。

 削ぎ落とされているからこそ、そのまま胸に届く。


(……言葉が少ないって、こんなにずるいんだ)


 けれど、その甘さを噛みしめた直後、鎌倉の海で感じた小さな不安が、また胸の奥をかすめた。


 言葉が少ないからこそ、届く時は深い。

 でも裏を返せば、何も言われなくなった時、その沈黙はどれほど冷たく感じるのだろう。


(……怖いな)


 親密さが増すほど、沈黙の意味まで大きくなる。

 そんなこと、前は考えもしなかった。


     *


 その予感は、週末の待ち合わせで、静かに形になった。


「すみません。少し遅れました」


 現れた拓也は、いつものコート姿だった。

 けれど、その歩調はどこか落ち着かず、優菜に向ける視線も、わずかに焦点を結ばないまま揺れている。


「ううん、私も今来たとこ。……拓也さん? 疲れてる?」

「いえ、大丈夫です。……少し、連絡が入っただけで」


 そう言ってスマホをコートの内ポケットにしまう手が、一瞬だけ止まった。


 カフェに入り、向かい合って座る。

 運ばれてきたコーヒーに、拓也はなかなか口をつけなかった。


 いつもなら、静かでも落ち着く沈黙だった。

 今日は違う。

 目の前にいるのに、どこか遠い。


 拓也が手帳を出そうとして、スマホを無造作にテーブルに置いた瞬間だった。

 画面が一度だけ明るくなる。


 覗き込むつもりなんてなかった。

 でも、視界に飛び込んできた送り主の名前に、優菜の指先がすっと冷えた。


『紗希』


 表示された文面は短かった。


『明日、時間ある? あの日のことなんだけど。少し、話しておきたいことがあって』


(……あの日のこと?)


 胸の奥で、何かが小さく軋んだ。


「……拓也さん」


 優菜の声に、拓也は弾かれたように顔を上げた。


「はい。どうかしましたか?」


 向けられた表情は、いつもの穏やかな彼だった。

 けれど、その瞳の奥は凪いでいて、優菜を見ているようで、もっと別の場所を見ている。


(……あ、だめだ)


 今の拓也は、ここにいない。


 カフェに流れるジャズが急に遠くなる。

 コーヒーの香りも、今はただ苦いだけだった。


 ついさっきまで胸を温めていた『着いた?』の四文字が、指の間から砂みたいに零れ落ちていく。


「……明日、お仕事ですか?」


 絞り出すように訊くと、拓也はコーヒーカップの縁を指でなぞりながら、半拍遅れて答えた。


「ええ、まあ……そんなところです」


 嘘だ、と優菜は思った。

 確信があったわけじゃない。

 でも、その曖昧な言い方が、かえって冷たく響いた。


 短い言葉で繋がれるようになったと思っていた。

 少ないやり取りでも、ちゃんと温度を受け取れていると思っていた。


 それが一瞬で揺らぐ。


 『着いた?』の四文字だけで、あんなに安心できたのに。

 今は、その人の沈黙ひとつで、胸の奥がこんなにも冷えていく。


 ――ああ、だめだ。


 私、もう、この人の言葉ひとつで揺れるところまで来てしまってる。


 テーブルの上には、手つかずのコーヒーと、もう光らないスマホだけが残っていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


「着いた?」


敬語も説明もない、たった四文字。


普段の拓也が言葉を削る人だからこそ、その短い問いかけには、優菜を心配し、帰りを待つ温度が込められていました。


けれど、言葉が少なくても信じ合えると思った直後、紗希から届いた「あの日のこと」という連絡。


さらに拓也は、その予定を仕事だと曖昧にごまかしてしまいます。


優しい沈黙と、何かを隠す沈黙。


同じ静けさでも、その意味はまったく違います。


拓也の一言で安心できるほど彼を好きになった優菜は、同じように、彼の嘘一つで深く傷つくところまで来ていました。


次話「彼の嘘、私のシンガポール」では、由紀と紗希によって二人のすれ違いが明るみに出ます。離れても続く関係を築くため、優菜と拓也は互いの寂しさと正面から向き合います。

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