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冬のレモン、キャメルの背中 ~満員電車で私を守ってくれた十九歳上の彼に、ゆっくり恋をしました~  作者: ちょこまろ


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第27章:彼の嘘、私のシンガポール

拓也の曖昧な返事によって、自分の知らないところで何かが進んでいると感じた優菜。


由紀と紗希に呼び出された夜、二人はシンガポールへ行く側と、日本で待つ側が抱える寂しさを、初めて真正面から突きつけられます。


優しい嘘ではなく、離れていても信じられる本音を交わすための夜です。

 十二月上旬。街はすっかり、幸福であることを半ば強制するみたいな光に満ちていた。

 視界の端から端までイルミネーションが瞬き、どの店からも同じようなクリスマスソングが流れてくる。


(……ちょっと待って、世界。そんなに浮かれないで)


 こっちは今、シンガポール行きの現実と、最愛の人の不自然な沈黙で、心がじわじわ削れているのだ。


 その停滞を、物理でなぎ倒したのは由紀だった。


「もやもやしてるあんたを見てる方が、こっちの精神衛生に悪いの。ほら、行くよ」


 強引に連れ出された表参道のダイニングバー。

 そこには、すでに紗希さんが座っていた。相変わらず姿勢が綺麗で、仕事帰りの疲れさえ武器みたいに見える。


「……あ、紗希さん」

「そんな顔しなくていいわよ。今日はただの、現実を直視する会」


 数分後、由紀に呼び出された拓也さんも現れた。

 私の姿を見た瞬間、彼はわずかに眉を動かした。でも、何も言わず、観念したように私の隣に腰を下ろす。


(……近い。近いのに、最近いちばん遠い)


 世間話は、ほとんど続かなかった。

 前菜の皿がひととおり並んだところで、紗希さんがフォークを置く。


「で。シンガポールの件、どうなってるの?」


 視線は拓也さんに向けられていた。

 彼は一拍置いてから、短く答える。


「準備中です」

「そういうことじゃないわよ」


 静かな声だった。

 静かなのに、逃げ道がない。


 次に、紗希さんの視線が私へ向く。


「優菜ちゃん。わかってる? 物理的な距離が奪うのは、会う時間だけじゃない。温度も奪うの」

「……」

「向こうで仕事に追われるあんたと、日本で冷めたコーヒー飲みながら、あんたの生存確認だけしてる彼。寂しいって感情は正しい。でも、その正しさが、いつか相手の足を引っ張るノイズにもなる」


 胸の奥を、細い針で刺されたみたいだった。

 それが私のいちばん怖いところだったから。


(……ノイズ)


 そう。

 私が怖いのは、私の寂しさが、この人の重荷になることだ。


「……わかってます」


 自分でも驚くほど、声が硬かった。


「わかってますよ、そんなの。寂しいに決まってるじゃないですか。シンガポールなんて、週末にふらっと会える距離じゃない。向こうで必死に仕事して、日本ではこの人が待ってて……すれ違って、たぶん、一人で泣きたくなる夜だってある」


 言葉が止まらなくなる。

 いや、止めたらだめだと思った。


「でも、それ以上に嫌なのは、私が知らないところで二人だけで話を進められることなんです」


 私は隣に座る拓也さんを見た。

 真面目で、優しくて、困るくらい不器用な人。


「拓也さんも。嘘つくなら、もっと上手にしてください」

「……」

「紗希さんに会うなら、そう言えばいいのに。私、自分が信じられなくなるところだったんです」


 店のジャズが、急に遠くなった。

 言ったあとで、指先が少し震える。

 でも、言えてよかったと思った。たぶん初めて、ここまでそのままぶつけた。


 拓也さんは一瞬だけ目を伏せた。

 それから、これまで見たことがないくらい、力の抜けた顔で小さく笑った。


「……参りました」


 その声には、降参と、少しの安堵が混ざっていた。


「君を不安にさせたくなかった。そう言えば聞こえはいいですけど、結局は僕の傲慢でしたね」


 テーブルの下で、彼の手が私の手を探る。

 そっと重なって、少しだけ強く握られる。


「紗希に会っていたのは、シンガポールの治安とか、一人暮らしで気をつけるべきことを、具体的に聞くためでした」

「……」

「向こうで君が困らないように、僕に何ができるのか知りたかった。待つのは当たり前です。でも、待つだけじゃ足りない気がした」


 私は息を止めた。

 この人は、こういう時だけ、いちばん言ってほしいことをまっすぐ投げてくる。


「君に余計な不安を背負わせたくなくて、黙って動いた。……でも、それで君を一人にしたなら、意味がないですね」


(……ずるい)


 胸が熱くて、痛い。

 さっきまで怒っていたはずなのに、その熱ごと抱きしめたくなるような声だった。


「……ふん。少しは人間味が出たじゃない」


 紗希さんがグラスを傾けて、面白くなさそうに言う。

 でもその目は、少しだけやわらいでいた。


「優菜ちゃん。これだけは覚えときなさい。スーツケースに詰め込める荷物には限りがある。思い出も同じ」

「……はい」

「思い出に縋りすぎて、現地の風が入らなくなるのもダメ。現地の風に当たりすぎて、日本の体温を忘れるのもダメ」


 そこで一度、紗希さんは言葉を切った。


「あんたたちは、新しい温度を作んなきゃいけないの。今までと同じやり方じゃなくて、離れてもちゃんと続く温度を」


 由紀が隣で「出た、編集長モード」と小さく呟いたけれど、紗希さんは無視した。


「それが無理なら、今ここで手を離しなさい。中途半端がいちばん残酷だから」


 その言葉のあと、少しだけ沈黙が落ちた。

 誰もすぐには何も言えなかった。


 最初に動いたのは紗希さんだった。

 伝票をひったくるように取って立ち上がる。


「今日は私のおごり。桐生くん、次は稟議書みたいな文章じゃなくて、もう少し血の通った言葉を使いなさい」

「……善処します」

「善処じゃないのよ、それがもうダメなの」


 最後に私の肩を軽く叩いて、紗希さんは先に店を出た。

 由紀も「私は空気読むね」と言って、わざとらしくウインクを残して続く。


 残されたのは、向かい合った私たちと、まだ少し温かいグラスだけだった。


     *


「……手、痛いですか」


 最初に口を開いたのは拓也さんだった。

 テーブルの下で、まだ繋がれたままの手を少しゆるめる。


「……痛くないです」

「強く握りすぎました」

「……もっと強くてもよかったです」


 言ってから、自分で顔が熱くなる。

 でも、今日は変に引きたくなかった。


 拓也さんは少しだけ目を細めて、また私の手を包み直した。

 今度は、さっきより少しだけやさしい力で。


「優菜さん」

「はい」

「置いていかれる側が平気だなんて、思わないでください」

「……」

「でも、だから行かないでほしいとも言いたくない。そこがたぶん、僕のいちばんずるいところです」


 まっすぐだった。

 言い訳じゃなく、飾りでもなく、そのままの本音だった。


 私は俯いたまま、彼の指先の震えを感じていた。

 待つと言い切った人の手が、こんなふうに少しだけ震えていることが、胸に刺さる。


(……この人を、置いていくんだ)


 はっきり言葉にしてしまうと、急に現実になる。

 今までぼんやり怖かったものが、輪郭を持つ。


「……私ね」

「はい」

「向こうに行っても、頑張れると思うんです。仕事は、たぶん大丈夫」

「うん」

「でも、頑張れるのと、寂しくないのは別なんですよ」


 拓也さんは何も言わなかった。

 ただ、手を離さなかった。


「寂しいです。今でも、もう寂しい。……だから、もし私が変な時間に連絡しても、困らないでください」

「困りません」

「返信、遅いと怒るかも」

「……努力します」

「そこは努力じゃなくて即答で」

「……はい」


 少しだけ、笑えた。

 その小さな笑いが、泣きそうなくらいありがたかった。


「拓也さん」

「はい」

「嘘つかないでくださいね。優しい嘘でも、今日みたいなのは嫌です」

「もう、つきません」

「ほんとに?」

「はい」


 短い返事。

 でも今度は、その短さを信じたいと思った。


 十二月の風は冷たかった。

 けれど、重ねた手の温度だけは、今ここに確かにある。


 この熱が、海を越えても届くのか。

 届かなくなった時、私たちは何を頼りにすればいいのか。


 答えはまだない。

 それでも、今日この人がちゃんと震えながら本音を言ったことだけは、本物だと思えた。


 店を出ると、表参道の光が相変わらず眩しかった。

 街は浮かれているのに、私たちだけがその少し外側を、静かに歩いている気がした。


 隣にいる人の手を、ほんの少しだけ強く握る。


(……この人を、置いていく)


 その事実だけが、熱を持った掌の中で、じりじりと痛かった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


拓也が紗希に会っていたのは、優菜を裏切るためではなく、シンガポールで彼女を守る方法を知るためでした。


けれど、相手を不安にさせたくないという理由で黙って動けば、結果として一人で不安を抱えさせてしまうこともあります。


優菜は初めて、拓也の嘘に傷ついたことを、そのまま彼へ伝えました。


そして二人は、


寂しいこと。

置いていかれるのが怖いこと。

それでも夢を諦めてほしくないこと。


きれいに整えられない感情まで、互いに見せ合います。


離れても続く関係に、今までと同じ温度は使えません。


二人はこれから、海を越えても届く新しい温度を作っていくことになります。


次話「世界と戦うためのスーツケース」では、出発を現実に変えるため、優菜と拓也がシンガポール生活の準備を始めます。

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