第28章:世界と戦うためのスーツケース
シンガポールへの出発を、まだ遠い未来のように感じていた優菜。
けれど、スーツケースや変換プラグを一つずつ選ぶたび、その日は確かな現実へ変わっていきます。
離れるための準備でありながら、同時に、離れても二人がつながり続けるための準備。
今回は、拓也が不器用な愛情を、具体的な形へ変えていくお話です。
十二月中旬。
街のクリスマスソングは、もう逃げ場がないくらいの音量で流れていた。
紗希さんに「現実」を真正面から突きつけられた夜から数日。
私と拓也さんは、新宿の巨大な家電量販店にいた。
照明の強いフロアの真ん中で、私は自分の腰ほどもあるスーツケースを見上げていた。
艶のあるポリカーボネートの表面に、売り場の白い光が冷たく映り込んでいる。
「……ねえ、拓也さん。これ、本当に必要?」
「必要です」
「即答」
「長期ですから」
拓也さんはタブレットのチェックリストを見ながら、売り場の札とスーツケースの容量を見比べている。
その横顔はいつも通り落ち着いているのに、私の方は落ち着くどころではなかった。
(……待って。これに私の人生を詰め込めってこと?)
服。靴。洗面道具。書類。変換プラグ。薬。
思いつくものを頭の中で並べるたび、三月が一歩ずつ現実になっていく。
「シンガポールは湿気が多いですから、衣類の保管も考えた方がいいと思います。あと、コンセントの形状が違うので、変換プラグは予備も含めて複数必要です」
「……うん」
「現地でも買えますが、到着直後に不足すると困るので」
「……うん」
「特にスマートフォンの充電が切れるのは避けたいです」
「……うん」
最後の一言だけ、やけに胸に落ちた。
私が黙っていると、拓也さんはようやく顔を上げた。
「……大きすぎますか?」
「大きいっていうか……現実が大きい」
そう言うと、拓也さんは少しだけ目を伏せた。
それ以上「でも必要です」とは言わなかった。
*
スーツケース売り場をうろうろしていると、明るい笑顔の店員さんが近づいてきた。
「お客様、海外旅行ですか? この時期でしたら、軽量モデルが人気ですよ」
私は一瞬、何と答えるべきか迷った。
旅行ではない。
でも、派遣です、と言った途端に何かが決定的な形を持ちそうで、口が止まる。
その沈黙を埋めたのは拓也さんだった。
「旅行ではありません」
「はい?」
「長期派遣に向けた準備です」
真顔だった。
あまりにも真顔で、店員さんの笑顔が一瞬だけ止まる。
「そ、そうでしたか……」
「容量と耐久性のバランスを優先したいです」
私はその場で吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえた。
(出た。拓也さんのこういうところ、ほんとずるい)
店員さんは一瞬きょとんとしてから、さすが接客のプロらしくすぐに立て直した。
「でしたら、こちらがおすすめです」
「ありがとうございます」
「優菜さん、どうですか」
「……隊長がそう言うなら」
「隊長?」
「なんでもないです」
笑ってしまったおかげで、さっきまでの息苦しさが少しだけほどけた。
怖いのに、こういう時に笑わせてくるから困る。
*
そこからは本当に、物資調達みたいな時間だった。
変換プラグ。
丈夫な充電ケーブル。
予備のモバイルバッテリー。
現地で最初の数日をしのぐための細かい生活用品。
私は買い物かごに入っていくものを見ながら、これが「出発の準備」なのだと、少しずつ受け入れていった。
手に取るたびに軽いものばかりなのに、気持ちの方は逆に重くなる。
「……これも?」
「必要です」
「これも?」
「必要です」
「拓也さん、私の不安まで予備を買おうとしてない?」
「できるなら買いたいです」
あまりに真面目に返されて、私は何も言えなくなった。
(……もう。そういうの、困る)
そのあと、拓也さんは売り場の奥でふいに立ち止まった。
最新のノートパソコンが並ぶコーナーだった。
「……パソコン?」
「はい」
「会社のあるでしょ?」
「あります。でも、持ち歩くには重い」
拓也さんは一台を手に取り、その重さを確かめるように持ち替えた。
「僕が外にいる時でも、優菜さんから連絡が来たら、すぐに応答できるようにしたいんです」
「……」
「家のデスクトップだけだと遅れることがあるので」
声は静かだった。
静かなのに、その目的だけは驚くほどはっきりしていた。
「一キロ以下が条件です」
「そこ、そんなに重要?」
「毎日持ち歩くなら重要です」
「毎日?」
「はい」
さらっと言うから、余計に息が詰まる。
「……毎日、持ち歩くつもりなの?」
「そうです」
拓也さんは店員さんに向き直った。
「これ、カフェの狭いテーブルでも開けますか」
「はい、かなり薄いので」
「ビデオ通話時のカメラ性能は」
「高めです」
「音声遅延は」
「その用途でしたら問題ないかと」
私はそのやり取りを、少し離れたところからぼんやり見ていた。
この人は今、私が海の向こうへ行ったあとの時間を、本気で準備している。
寂しさを詩みたいに語るんじゃなくて、毎日鞄に入る重さで考えている。
「……そこまでしなくても」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
拓也さんは、選びかけていたモデルから手を離して、私を見た。
「そこまで、します」
「でも」
「そうしないと、僕の方が困るので」
少しだけ言い淀んで、視線をずらす。
「いつ連絡が来ても、すぐに出たいんです。……向こうの君を、一秒でも長く確認していたいので」
私はもう、何も言えなかった。
(……負けた)
不器用なくせに、いちばん深いところだけは絶対に誤魔化さない。
そういう言い方をされたら、私の方こそちゃんと戦って帰ってこなきゃいけない気がする。
*
レジを済ませて店を出る頃には、両手いっぱいに紙袋が増えていた。
変換プラグ。
ケーブル。
モバイルバッテリー。
そして、いつでも私の声を受け取るための、新しいノートパソコン。
持ち手が指に食い込む。
重い。
でも、この重さはただの荷物じゃなかった。三月までの時間そのものみたいだった。
新宿駅へ向かうネオンの道で、私は紙袋を抱え直した。
「……拓也さん」
「はい」
「これ、全部スーツケースに詰めたら、本当に私、行っちゃうんですね」
足が止まる。
拓也さんも立ち止まった。
彼は私の左手を取って、少し強く握った。
その力は、思っていたより震えていた。
「ええ」
「……」
「でも、解く日が来ます」
短い沈黙のあと、拓也さんは続けた。
「その時は、僕が迎えに行きます。向こうで増えた荷物も、全部持ちます」
私は笑いそうになって、でも笑えなかった。
涙の方が先に来そうだったから。
「……ほんと、お父さんみたい」
「よく言われます」
「今、私しか言ってない」
「それでも、です」
少しだけ笑ってくれた。
その笑いに、私もようやく呼吸が戻る。
「毎日、会いに行きます」
「パソコン越しに?」
「はい。外でも応答できるよう、練習しておきます」
「練習って」
「大事でしょう」
「……大事です」
大事すぎて困る。
大事すぎて、今この瞬間が終わらなければいいのにと思ってしまう。
私は紙袋を持ち直しながら、拓也さんの腕にそっと寄りかかった。
「……次は、クリスマスですね」
「ええ」
「ちゃんと、デートらしいことしましょうね」
「はい」
「案件じゃなくて」
「……そこは、反省しています」
その言い方がおかしくて、少しだけ笑えた。
「じゃあ、思い切り浮かれましょう」
「はい」
「私がシンガポールから帰ってきたあと、一番に思い出すような日にしたい」
「……そうしましょう」
街はまだ、容赦なくきらきらしていた。
でも今だけは、その光に少し助けられている気がした。
三月の足音は、もうすぐそこまで来ている。
それでも、今は。
指に食い込む紙袋の重さと、隣から伝わる体温だけを、ちゃんと覚えておきたかった。
この先、何を置いていって、何を持っていけるのか。
まだ全部はわからない。
けれど少なくとも、今日買ったものはみんな、世界と戦うための道具だった。
そして、その中にはちゃんと、離れてもこの人と繋がるための準備も入っている。
それだけで、少しだけ前を向ける気がした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
大きなスーツケース、変換プラグ、モバイルバッテリー。
どれも優菜が海外で暮らすために必要なものですが、買い物かごに入るたび、出発の日が近づいていることを二人に突きつけます。
そして拓也が選んだのは、優菜からの連絡にいつでも応えられるよう、毎日持ち歩くためのノートパソコンでした。
「向こうの君を、一秒でも長く確認していたい」
寂しさを言葉だけで終わらせず、重さや性能まで確かめて準備するところが、拓也らしい愛し方なのだと思います。
荷物を詰める日は、確実に近づいています。
けれど拓也は、スーツケースを解く日には自分が迎えに行き、向こうで増えた荷物まで全部持つと約束しました。
次話「聖夜のロジスティクス」では、みなとみらいで迎える二人のクリスマス。拓也が一か月かけて準備したデートの夜、曖昧だった二人の関係に、ようやくはっきりとした名前が与えられます。




