↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冬のレモン、キャメルの背中 ~満員電車で私を守ってくれた十九歳上の彼に、ゆっくり恋をしました~  作者: ちょこまろ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/37

第29章:聖夜のロジスティクス

十二月二十四日、みなとみらい。


一か月前から準備されたジャズバーと、優菜のために選ばれた小さなネックレス。


不器用な拓也が精いっぱい用意した、初めての「恋人らしい」クリスマスです。


けれど、幸せな夜の向こうには、シンガポールへ旅立つ三月が静かに近づいていました。

 十二月二十四日。横浜・みなとみらい。

 海からの風は頬を刺すほど冷たいのに、視界に入る景色はそれを忘れさせるくらい明るかった。大観覧車が、巨大な宝石みたいにゆっくり回っている。


 人の波に押されそうになった瞬間、拓也さんの手が私の肘のあたりをそっと引いた。


「……優菜さん。こちらです」


 今日の彼は、いつものビジネスバッグを持っていない。仕立てのいいコートのポケットに片手を入れて、もう片方の手だけで私を人の流れから外へ導いていく。

 それだけのことなのに、今夜は妙に胸が熱くなった。


(……あ、この人、ほんとに今日を“デート”として扱ってる)


 連れて行かれたのは、ホテルの上階にあるジャズバーだった。

 重厚な扉が開いた瞬間、琥珀色の照明と低いウッドベースの音が身体を包む。窓の向こうには、みなとみらいの夜景が一面に広がっていた。


「……すごい」

「気に入ってもらえましたか」

「うん。すごい、しか言えない」


 席に着いてからも、私はしばらく窓の外ばかり見ていた。

 光の海みたいだった。こういう景色の中に自分がいることが、まだ少し信じられない。


「……ここ、予約取るの大変だったんじゃない?」

「一か月前から動きました」

「一か月前」

「由紀さんに、早めに確保しなさいと指導されまして」

「また由紀……」


 そこで拓也さんは少しだけ言いにくそうに視線を落とした。


「……九〇年代の雑誌も渡されました」

「雑誌?」

「『こういう場所では窓際』『クリスマスは背伸びしなさい』と」

「ふふっ」

「正直、かなり過負荷です」


 真面目な顔でそう言うから、私はとうとう笑ってしまった。

 でも、その過負荷を一か月かけて準備してくれたのだと思うと、笑いながら少し泣きそうにもなる。


 運ばれてきたカクテルのグラスを持つ彼の指先は、心なしか少しだけ強張っていた。

 私だけじゃない。拓也さんだって、ちゃんと緊張している。


 しばらく他愛のない話をしてから、拓也さんはふいにコートのポケットへ手を入れた。


「……優菜さん。これを」


 小さな箱だった。

 開かれた中には、細い鎖の先に一粒だけ光を抱いたネックレスがあった。派手ではないのに、目が離せない。そういう光り方をしていた。


「……え」

「シンガポールに、持っていってほしいんです」


 拓也さんは箱を持ったまま、私を見ていた。


「僕がそばにいられない時、代わりになるものを探しました。変色しにくくて、日常的に身につけても負担にならないものをと思って」

「……」

「かなり確認しました」


 一時間くらいは確認してそう、と思った。

 でもその予想は、たぶん外れていない。


(……もう。この人、本当にこういうところなんだよな)


 ロマンチックな言葉で押し切る人じゃない。

 その代わり、確かめて、選んで、考えて、ちゃんと残るものを渡してくる。


「……着けてもらってもいいですか」

「はい」


 私は髪を片側へ寄せた。

 彼が立ち上がる気配がして、次の瞬間、首筋に冷たい金具の感触が触れる。

 でも冷たかったのは最初だけで、すぐに、彼の指先の熱の方が強く残った。


 息を止めていたせいで、金具が留まったあともしばらく動けなかった。


「……大丈夫ですか」

「大丈夫じゃないです」

「え」

「幸せすぎて」


 自分で言って、自分で顔が熱くなる。

 でも、今夜は少しくらい正直でいたかった。


 拓也さんは一瞬だけ目を見開いて、それから小さく、ほんの少しだけ笑った。


「……よかったです」


 そのあと、少しの沈黙が落ちた。

 生演奏のピアノだけが、私たちの代わりにうまく呼吸しているみたいだった。


「優菜さん」

「はい」

「もう一つだけ、言っておきたいことがあります」


 彼はグラスには触れず、テーブルの上で指を組んだ。


「シンガポールは遠いです。でも、遠いからといって、任せきりにはしません」

「……」

「生活のことでも、仕事のあとでしんどい夜でも、連絡してください。時間が合わない日もあると思いますが、できる限り合わせます」

「はい」

「待つだけではなく、こちらからも会いに行きます。画面越しでも、言葉でも。……離れている間のやり方を、僕もちゃんと覚えます」


 まっすぐだった。

 ロジスティクスとか、システムとか、そういう言葉に逃げないで言ってくれているのがわかった。


 私は胸元の小さな光にそっと触れた。

 それは軽いのに、ずしんと重かった。


「……ずるい」

「何がですか」

「そういうこと、今日みたいな日に言うの」

「今日だから、です」

「……うん」


 窓の外では、屋形船の灯りが海の上をゆっくり流れていた。

 どこを見ても幸せそうな夜だった。たぶん、世の中の多くの恋人たちが、今日を特別な日にしようとしている。


 その中で、私たちもちゃんと特別だった。

 でも同時に、三月の足音も消えてはいなかった。


(……来年の今ごろ、私はここにいない)


 その言葉が、喉まで上がってくる。

 たぶん拓也さんも、似たようなことを考えていた。

 何かを言いかけて、でも言わなかった顔をしたから。


 私たちは、あえてその先を口にしなかった。

 来年は、なんて言った瞬間に、この夜の魔法が現実へ崩れてしまいそうだったから。


     *


 バーを出て、プロムナードを並んで歩く。

 胸元のネックレスが、ときどきコートの隙間で小さく光る。


「……綺麗ですね」

「ええ」


 拓也さんは私の歩幅に合わせて、少しだけ速度を落とした。

 その何でもない調整が、今夜はたまらなく優しく感じる。


 観覧車の光が、海に揺れていた。

 寒いのに、二人の間だけ少し温度が高い気がした。


 桜木町駅へ向かう途中、拓也さんが不意に立ち止まった。


「……優菜さん。少しだけ、言葉を増やしてもいいですか」

「はい?」


 真正面から見られて、私は思わず背筋を伸ばす。


「今日は、とても楽しかった」

「……」

「『恋人』として過ごす時間が、こんなに大きいものだとは思っていませんでした」


 一瞬、耳の奥が熱くなった。

 今まで、なんとなく輪郭を曖昧にしてきた言葉。

 恋人。

 それが、みなとみらいの光の中で、今はっきり形を持った。


 私は返事をしようとして、うまく息ができなかった。

 嬉しいのに、胸の奥がきゅうっと痛む。

 その言葉を、ずっと待っていたはずなのに。待っていたからこそ、簡単には受け止めきれない。


(……ああ。私たち、ちゃんとここまで来たんだ)


 満員電車のホームで、背中越しの体温だけを覚えていた冬。

 名前を交換した雨の夜。

 焙じ茶。レモンの木。ボルボの助手席。東京駅のベンチ。

 うまく言えなかったことも、言わないまま通じたことも、全部この一言に追いついてきた気がした。


 恋人。


 その呼び名は、甘いだけじゃなかった。

 これから離れる現実も、待つ時間も、寂しさも、全部引き受けたうえで、それでもそう呼びたいと決める言葉だった。


 だから、泣きそうになる。


「……私もです」


 やっと、それだけ言えた。

 けれど足りない気がして、私はもう一度、ちゃんと彼を見た。


「私も、拓也さんと『恋人』として過ごす時間が、すごく好きです」

「……」

「案件じゃなくて、最高のデートでした」


 拓也さんは少しだけ目を伏せて、それから、照れたみたいに小さく笑った。

 その顔を見て、ようやく私もちゃんと笑えた。


 駅へ向かう人の流れが、私たちの横を絶えず通り過ぎていく。

 三月は止まらない。出発のカウントダウンも、きっともう始まっている。


 それでも今夜、言葉は少しだけ前に進んだ。

 離れる前に、ちゃんと形を持ったものがあった。


 それぞれの帰り道へ向かう電車の中、窓に映る自分の胸元には小さな光が揺れていた。

 左手の指先だけは、まだ彼の体温を覚えたまま、じりじりと熱を持っていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


拓也が優菜へ贈ったのは、離れている間も身につけられる一粒のネックレスでした。


そばにいられない時間を、形のあるものへ託そうとするところにも、彼らしい愛情が表れています。


そして、みなとみらいの光の中で拓也が口にした、


「恋人として過ごす時間」


という言葉。


これまで曖昧だった二人の関係に、ようやくはっきりとした名前が与えられました。


恋人という呼び名は、ただ甘いだけのものではありません。


離れる現実も、待つ寂しさも引き受けたうえで、それでも共にいたいと決める言葉です。


次話「恋人という名前」では、クリスマスの魔法が解けた日常の中で、二人が改めて自分たちの関係を確かめます。そして残された時間を、どのように使うのかを選び始めます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。