第29章:聖夜のロジスティクス
十二月二十四日、みなとみらい。
一か月前から準備されたジャズバーと、優菜のために選ばれた小さなネックレス。
不器用な拓也が精いっぱい用意した、初めての「恋人らしい」クリスマスです。
けれど、幸せな夜の向こうには、シンガポールへ旅立つ三月が静かに近づいていました。
十二月二十四日。横浜・みなとみらい。
海からの風は頬を刺すほど冷たいのに、視界に入る景色はそれを忘れさせるくらい明るかった。大観覧車が、巨大な宝石みたいにゆっくり回っている。
人の波に押されそうになった瞬間、拓也さんの手が私の肘のあたりをそっと引いた。
「……優菜さん。こちらです」
今日の彼は、いつものビジネスバッグを持っていない。仕立てのいいコートのポケットに片手を入れて、もう片方の手だけで私を人の流れから外へ導いていく。
それだけのことなのに、今夜は妙に胸が熱くなった。
(……あ、この人、ほんとに今日を“デート”として扱ってる)
連れて行かれたのは、ホテルの上階にあるジャズバーだった。
重厚な扉が開いた瞬間、琥珀色の照明と低いウッドベースの音が身体を包む。窓の向こうには、みなとみらいの夜景が一面に広がっていた。
「……すごい」
「気に入ってもらえましたか」
「うん。すごい、しか言えない」
席に着いてからも、私はしばらく窓の外ばかり見ていた。
光の海みたいだった。こういう景色の中に自分がいることが、まだ少し信じられない。
「……ここ、予約取るの大変だったんじゃない?」
「一か月前から動きました」
「一か月前」
「由紀さんに、早めに確保しなさいと指導されまして」
「また由紀……」
そこで拓也さんは少しだけ言いにくそうに視線を落とした。
「……九〇年代の雑誌も渡されました」
「雑誌?」
「『こういう場所では窓際』『クリスマスは背伸びしなさい』と」
「ふふっ」
「正直、かなり過負荷です」
真面目な顔でそう言うから、私はとうとう笑ってしまった。
でも、その過負荷を一か月かけて準備してくれたのだと思うと、笑いながら少し泣きそうにもなる。
運ばれてきたカクテルのグラスを持つ彼の指先は、心なしか少しだけ強張っていた。
私だけじゃない。拓也さんだって、ちゃんと緊張している。
しばらく他愛のない話をしてから、拓也さんはふいにコートのポケットへ手を入れた。
「……優菜さん。これを」
小さな箱だった。
開かれた中には、細い鎖の先に一粒だけ光を抱いたネックレスがあった。派手ではないのに、目が離せない。そういう光り方をしていた。
「……え」
「シンガポールに、持っていってほしいんです」
拓也さんは箱を持ったまま、私を見ていた。
「僕がそばにいられない時、代わりになるものを探しました。変色しにくくて、日常的に身につけても負担にならないものをと思って」
「……」
「かなり確認しました」
一時間くらいは確認してそう、と思った。
でもその予想は、たぶん外れていない。
(……もう。この人、本当にこういうところなんだよな)
ロマンチックな言葉で押し切る人じゃない。
その代わり、確かめて、選んで、考えて、ちゃんと残るものを渡してくる。
「……着けてもらってもいいですか」
「はい」
私は髪を片側へ寄せた。
彼が立ち上がる気配がして、次の瞬間、首筋に冷たい金具の感触が触れる。
でも冷たかったのは最初だけで、すぐに、彼の指先の熱の方が強く残った。
息を止めていたせいで、金具が留まったあともしばらく動けなかった。
「……大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないです」
「え」
「幸せすぎて」
自分で言って、自分で顔が熱くなる。
でも、今夜は少しくらい正直でいたかった。
拓也さんは一瞬だけ目を見開いて、それから小さく、ほんの少しだけ笑った。
「……よかったです」
そのあと、少しの沈黙が落ちた。
生演奏のピアノだけが、私たちの代わりにうまく呼吸しているみたいだった。
「優菜さん」
「はい」
「もう一つだけ、言っておきたいことがあります」
彼はグラスには触れず、テーブルの上で指を組んだ。
「シンガポールは遠いです。でも、遠いからといって、任せきりにはしません」
「……」
「生活のことでも、仕事のあとでしんどい夜でも、連絡してください。時間が合わない日もあると思いますが、できる限り合わせます」
「はい」
「待つだけではなく、こちらからも会いに行きます。画面越しでも、言葉でも。……離れている間のやり方を、僕もちゃんと覚えます」
まっすぐだった。
ロジスティクスとか、システムとか、そういう言葉に逃げないで言ってくれているのがわかった。
私は胸元の小さな光にそっと触れた。
それは軽いのに、ずしんと重かった。
「……ずるい」
「何がですか」
「そういうこと、今日みたいな日に言うの」
「今日だから、です」
「……うん」
窓の外では、屋形船の灯りが海の上をゆっくり流れていた。
どこを見ても幸せそうな夜だった。たぶん、世の中の多くの恋人たちが、今日を特別な日にしようとしている。
その中で、私たちもちゃんと特別だった。
でも同時に、三月の足音も消えてはいなかった。
(……来年の今ごろ、私はここにいない)
その言葉が、喉まで上がってくる。
たぶん拓也さんも、似たようなことを考えていた。
何かを言いかけて、でも言わなかった顔をしたから。
私たちは、あえてその先を口にしなかった。
来年は、なんて言った瞬間に、この夜の魔法が現実へ崩れてしまいそうだったから。
*
バーを出て、プロムナードを並んで歩く。
胸元のネックレスが、ときどきコートの隙間で小さく光る。
「……綺麗ですね」
「ええ」
拓也さんは私の歩幅に合わせて、少しだけ速度を落とした。
その何でもない調整が、今夜はたまらなく優しく感じる。
観覧車の光が、海に揺れていた。
寒いのに、二人の間だけ少し温度が高い気がした。
桜木町駅へ向かう途中、拓也さんが不意に立ち止まった。
「……優菜さん。少しだけ、言葉を増やしてもいいですか」
「はい?」
真正面から見られて、私は思わず背筋を伸ばす。
「今日は、とても楽しかった」
「……」
「『恋人』として過ごす時間が、こんなに大きいものだとは思っていませんでした」
一瞬、耳の奥が熱くなった。
今まで、なんとなく輪郭を曖昧にしてきた言葉。
恋人。
それが、みなとみらいの光の中で、今はっきり形を持った。
私は返事をしようとして、うまく息ができなかった。
嬉しいのに、胸の奥がきゅうっと痛む。
その言葉を、ずっと待っていたはずなのに。待っていたからこそ、簡単には受け止めきれない。
(……ああ。私たち、ちゃんとここまで来たんだ)
満員電車のホームで、背中越しの体温だけを覚えていた冬。
名前を交換した雨の夜。
焙じ茶。レモンの木。ボルボの助手席。東京駅のベンチ。
うまく言えなかったことも、言わないまま通じたことも、全部この一言に追いついてきた気がした。
恋人。
その呼び名は、甘いだけじゃなかった。
これから離れる現実も、待つ時間も、寂しさも、全部引き受けたうえで、それでもそう呼びたいと決める言葉だった。
だから、泣きそうになる。
「……私もです」
やっと、それだけ言えた。
けれど足りない気がして、私はもう一度、ちゃんと彼を見た。
「私も、拓也さんと『恋人』として過ごす時間が、すごく好きです」
「……」
「案件じゃなくて、最高のデートでした」
拓也さんは少しだけ目を伏せて、それから、照れたみたいに小さく笑った。
その顔を見て、ようやく私もちゃんと笑えた。
駅へ向かう人の流れが、私たちの横を絶えず通り過ぎていく。
三月は止まらない。出発のカウントダウンも、きっともう始まっている。
それでも今夜、言葉は少しだけ前に進んだ。
離れる前に、ちゃんと形を持ったものがあった。
それぞれの帰り道へ向かう電車の中、窓に映る自分の胸元には小さな光が揺れていた。
左手の指先だけは、まだ彼の体温を覚えたまま、じりじりと熱を持っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
拓也が優菜へ贈ったのは、離れている間も身につけられる一粒のネックレスでした。
そばにいられない時間を、形のあるものへ託そうとするところにも、彼らしい愛情が表れています。
そして、みなとみらいの光の中で拓也が口にした、
「恋人として過ごす時間」
という言葉。
これまで曖昧だった二人の関係に、ようやくはっきりとした名前が与えられました。
恋人という呼び名は、ただ甘いだけのものではありません。
離れる現実も、待つ寂しさも引き受けたうえで、それでも共にいたいと決める言葉です。
次話「恋人という名前」では、クリスマスの魔法が解けた日常の中で、二人が改めて自分たちの関係を確かめます。そして残された時間を、どのように使うのかを選び始めます。




