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冬のレモン、キャメルの背中 ~満員電車で私を守ってくれた十九歳上の彼に、ゆっくり恋をしました~  作者: ちょこまろ


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第30章:恋人という名前

クリスマスの夜、二人の関係には「恋人」という名前がつきました。


けれど、その言葉を日常の中で改めて口にすると、甘さだけではない重みが見えてきます。


離れる未来も、待つ時間も、寂しさも。


すべてを引き受けたうえで、それでも同じ名前でつながると決める二人のお話です。

 クリスマスが過ぎて、街から赤と緑の飾りが引いていっても、私の胸元にはあの一粒の光が残っていた。

 鏡を見るたびに、拓也さんの震える指先と、みなとみらいの琥珀色の空気を思い出す。


(……恋人。私たち、本当に恋人なんだ)


 そう思うたびに胸の奥が熱くなるのに、そのすぐ下で、三月という日付が静かに冷えている。

 幸せと不安が、同じ場所に重なっている感じだった。


 仕事納めが近い十二月下旬。

 私たちは、年明けの予定とシンガポール行きの細かい準備を兼ねて、青山の落ち着いたカフェにいた。


 窓際の席。テーブルの上には資料と手帳とコーヒー。

 拓也さんは、いつも通り静かな声で話している。


「現地側との認識合わせは、年明け早々にもう一度必要ですね。住居まわりも、最初の一週間だけは余裕を持って見ておいた方がいいと思います」

「はい。そうですね」

「ネットワーク環境も、最初から業務基準で確保できるか確認した方が……」

「うん」


 返事はしている。しているのに、意識の半分は別のところにあった。

 目の前の人が、数日前にみなとみらいの光の中で「恋人」と言った、その事実が、今さらじわじわ効いている。


(……だめだ。この人、真顔でシステムの話してるのに、数日前はあんな顔してたんだよね)


 そこへ、注文したカフェラテが運ばれてきた。


「お待たせしました。こちら、お連れさまのカフェラテです」


 店員さんの何気ない一言に、私の思考が止まった。


 お連れさま。


 よくある接客用語だ。

 今までだって何度も聞いたことがある。

 なのに今日は、その一言がやけにまっすぐ胸に入ってきた。


(……お連れさま)


 私はラテの泡を見つめたまま、固まった。

 向かいでは、拓也さんが何でもない顔で「ありがとうございます」と受け取っている。


「……優菜さん」

「はい」

「顔が赤いですが。空調が暑いですか」

「空調は悪くないです」

「では?」

「……さっきの、店員さんの言葉が」


 拓也さんは少しだけ首を傾げた。

 それから、理解したみたいに目を細める。


「……『お連れさま』ですか」

「うん」

「事実に即した表現だと思います」

「そういう言い方」


 思わず笑ってしまう。

 でも笑いながら、胸の奥では別の熱が広がっていく。


「なんていうか……急に現実味が湧いたんです」

「現実味」

「うん。私たち、本当にそう見えるんだって」


 拓也さんは資料から手を離した。

 それから、少しだけ声を落として言った。


「……優菜さん」

「はい」

「僕は、今の『お連れさま』という認識を、かなり好意的に受け止めています」

「かなり」

「はい。むしろ、もう少し明確でもいいと思っています」


 私は瞬きをした。

 拓也さんは、まっすぐこっちを見ていた。


「……恋人、と呼んでいいですか」


 時間が止まった気がした。


 みなとみらいの夜にも、その言葉は出た。

 でも今は、クリスマスの魔法が少し引いた昼のカフェで、資料とコーヒーのあいだに置かれている。

 その分だけ、もっと現実で、もっと重い。


「僕の気分ではなくて」

 拓也さんが続ける。

「僕たちの関係の名前として、ちゃんとそう呼びたいです」


 胸がきゅっと痛くなった。

 嬉しいだけじゃない。

 その言葉に重さがあるからだ。


 私はゆっくり頷いた。


「……はい」

「……」

「呼んでください。恋人、ですから」


 言ってしまうと、世界が一段深くなった気がした。

 拓也さんの口元が、ごくわずかに緩む。


「……わかりました」

 彼は小さく息をついてから、いつもの口調で続けた。

「では、関係の呼称はそれで固定します」

「固定って」

「曖昧なままにしたくないので」

「……うん。そこは、私も同じ」


 笑ったのに、喉の奥が少し熱い。

 たぶん泣くほどじゃない。

 でも、簡単に流していい話でもなかった。


 恋人。


 甘い言葉だと思っていた。

 でも実際は、甘いだけじゃない。

 これから離れる現実も、待つ時間も、寂しさも、全部引き受けたうえで、それでもそう呼ぶと決めることだった。


 ふと、テーブルの隅の資料に目が落ちる。

 そこにある「Departure: March」の文字が、急に輪郭を持って迫ってきた。


(……あと二か月ちょっと)


 やっと、こうして向かい合って笑えるようになった。

 やっと、関係に名前がついた。

 なのに、その直後に、別れの時刻表まで同じ紙の上にある。


 息が少し浅くなった。

 幸せになればなるほど、失う想像も鮮明になる。

 それがこんなに苦しいなんて、前は知らなかった。


 視線を落としたままの私の指先に、テーブルの下で何かがそっと触れた。

 拓也さんの手だった。


「……優菜さん」

「うん」

「重いですか」

「……重い」

「そうですよね」


 彼は否定しなかった。

 大丈夫だとも、気にしなくていいとも言わない。

 ただ、触れた指先を少しだけ包み直す。


「僕も、重いです」

「……」

「恋人という名前をつけたら、軽くなると思っていたわけではありません。でも、名前がないまま離れるよりは、ずっといいと思いました」


 私はゆっくり顔を上げた。

 拓也さんは静かな目でこちらを見ている。


「時間は増やせません」

「うん」

「でも、使い方は選べます」


 彼はコートのポケットから手帳を取り出した。

 ページを開く。十二月三十一日。そこに、不格好なくらい大きな丸が赤いペンで書かれていた。


「この日、空けています」

「……」

「仕事でも、準備でもなく、僕たちの時間にしたいです」

「僕たちの」

「はい。三月の話をすると、未来が全部減っていく気がするので。減る前に、ちゃんと置いておきたい」


 置いておきたい。

 その言い方が、この人らしかった。

 大きな約束や派手な言葉じゃなくて、失くさないように、時間そのものを手元に置こうとするみたいで。


「……ずるい」

「何がですか」

「そういうこと、静かな顔で言うところ」

「困らせていますか」

「困ってる。すごく」


 でも、その困り方は嫌じゃなかった。

 むしろ救われていた。


 私は資料の端を指で押さえたまま、小さく笑った。


「じゃあ、大晦日は私も空けます」

「……よかった」

「でも、未来って言ったからには、ちゃんと覚悟してくださいね」

「はい」

「その時間、あとから思い出して苦しくなるくらい、ちゃんと大事にするから」

「……それでも、いいです」

「ほんとに?」

「はい。そういう時間が必要です」


 窓の外では、青山の冬の光が静かに傾いていた。

 クリスマスほど派手じゃない。

 でもその分だけ、今日の会話は現実だった。


 恋人になった私たちの、最初の年末。

 その事実は甘かった。

 同時に、胸が少し痛くなるくらい重かった。


 でもたぶん、重いからこそ、本物なのだと思う。


 胸元のネックレスにそっと触れる。

 ひやりとした先に、すぐ自分の体温が移る。


 これから先、何度も揺れるんだろう。

 寂しさも、不安も、きっと消えない。


 それでも。


 名前がついたこと。

 重さを二人で引き受けると決めたこと。

 その二つだけは、今日の私たちの確かな前進だった。


 テーブルの下で重なった指先を、私も少しだけ握り返した。

 その小さな力だけで、今は十分だと思えた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


クリスマスの特別な空気の中ではなく、資料とコーヒーが並ぶいつものカフェで、拓也は改めて問いかけました。


「恋人、と呼んでいいですか」


それは気分や雰囲気ではなく、二人の関係にきちんと名前を与えるための言葉でした。


恋人になったからといって、シンガポールへの距離が縮まるわけではありません。


むしろ名前がついたことで、離れることの重さは、以前よりもはっきりと感じられるようになります。


それでも、名前のないまま離れるより、重さを二人で引き受けたい。


残された時間を増やすことはできなくても、どう使うかは選べる。


そう考えた二人は、大晦日を自分たちのための時間として残すことを決めました。


次話「丸印の日」では、年末年始の予定を確認する二人が、会えない時間の多さに直面します。そして拓也は、どうしても優菜に会いたい一日に、何度も重ねて大きな丸印をつけます。

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