第30章:恋人という名前
クリスマスの夜、二人の関係には「恋人」という名前がつきました。
けれど、その言葉を日常の中で改めて口にすると、甘さだけではない重みが見えてきます。
離れる未来も、待つ時間も、寂しさも。
すべてを引き受けたうえで、それでも同じ名前でつながると決める二人のお話です。
クリスマスが過ぎて、街から赤と緑の飾りが引いていっても、私の胸元にはあの一粒の光が残っていた。
鏡を見るたびに、拓也さんの震える指先と、みなとみらいの琥珀色の空気を思い出す。
(……恋人。私たち、本当に恋人なんだ)
そう思うたびに胸の奥が熱くなるのに、そのすぐ下で、三月という日付が静かに冷えている。
幸せと不安が、同じ場所に重なっている感じだった。
仕事納めが近い十二月下旬。
私たちは、年明けの予定とシンガポール行きの細かい準備を兼ねて、青山の落ち着いたカフェにいた。
窓際の席。テーブルの上には資料と手帳とコーヒー。
拓也さんは、いつも通り静かな声で話している。
「現地側との認識合わせは、年明け早々にもう一度必要ですね。住居まわりも、最初の一週間だけは余裕を持って見ておいた方がいいと思います」
「はい。そうですね」
「ネットワーク環境も、最初から業務基準で確保できるか確認した方が……」
「うん」
返事はしている。しているのに、意識の半分は別のところにあった。
目の前の人が、数日前にみなとみらいの光の中で「恋人」と言った、その事実が、今さらじわじわ効いている。
(……だめだ。この人、真顔でシステムの話してるのに、数日前はあんな顔してたんだよね)
そこへ、注文したカフェラテが運ばれてきた。
「お待たせしました。こちら、お連れさまのカフェラテです」
店員さんの何気ない一言に、私の思考が止まった。
お連れさま。
よくある接客用語だ。
今までだって何度も聞いたことがある。
なのに今日は、その一言がやけにまっすぐ胸に入ってきた。
(……お連れさま)
私はラテの泡を見つめたまま、固まった。
向かいでは、拓也さんが何でもない顔で「ありがとうございます」と受け取っている。
「……優菜さん」
「はい」
「顔が赤いですが。空調が暑いですか」
「空調は悪くないです」
「では?」
「……さっきの、店員さんの言葉が」
拓也さんは少しだけ首を傾げた。
それから、理解したみたいに目を細める。
「……『お連れさま』ですか」
「うん」
「事実に即した表現だと思います」
「そういう言い方」
思わず笑ってしまう。
でも笑いながら、胸の奥では別の熱が広がっていく。
「なんていうか……急に現実味が湧いたんです」
「現実味」
「うん。私たち、本当にそう見えるんだって」
拓也さんは資料から手を離した。
それから、少しだけ声を落として言った。
「……優菜さん」
「はい」
「僕は、今の『お連れさま』という認識を、かなり好意的に受け止めています」
「かなり」
「はい。むしろ、もう少し明確でもいいと思っています」
私は瞬きをした。
拓也さんは、まっすぐこっちを見ていた。
「……恋人、と呼んでいいですか」
時間が止まった気がした。
みなとみらいの夜にも、その言葉は出た。
でも今は、クリスマスの魔法が少し引いた昼のカフェで、資料とコーヒーのあいだに置かれている。
その分だけ、もっと現実で、もっと重い。
「僕の気分ではなくて」
拓也さんが続ける。
「僕たちの関係の名前として、ちゃんとそう呼びたいです」
胸がきゅっと痛くなった。
嬉しいだけじゃない。
その言葉に重さがあるからだ。
私はゆっくり頷いた。
「……はい」
「……」
「呼んでください。恋人、ですから」
言ってしまうと、世界が一段深くなった気がした。
拓也さんの口元が、ごくわずかに緩む。
「……わかりました」
彼は小さく息をついてから、いつもの口調で続けた。
「では、関係の呼称はそれで固定します」
「固定って」
「曖昧なままにしたくないので」
「……うん。そこは、私も同じ」
笑ったのに、喉の奥が少し熱い。
たぶん泣くほどじゃない。
でも、簡単に流していい話でもなかった。
恋人。
甘い言葉だと思っていた。
でも実際は、甘いだけじゃない。
これから離れる現実も、待つ時間も、寂しさも、全部引き受けたうえで、それでもそう呼ぶと決めることだった。
ふと、テーブルの隅の資料に目が落ちる。
そこにある「Departure: March」の文字が、急に輪郭を持って迫ってきた。
(……あと二か月ちょっと)
やっと、こうして向かい合って笑えるようになった。
やっと、関係に名前がついた。
なのに、その直後に、別れの時刻表まで同じ紙の上にある。
息が少し浅くなった。
幸せになればなるほど、失う想像も鮮明になる。
それがこんなに苦しいなんて、前は知らなかった。
視線を落としたままの私の指先に、テーブルの下で何かがそっと触れた。
拓也さんの手だった。
「……優菜さん」
「うん」
「重いですか」
「……重い」
「そうですよね」
彼は否定しなかった。
大丈夫だとも、気にしなくていいとも言わない。
ただ、触れた指先を少しだけ包み直す。
「僕も、重いです」
「……」
「恋人という名前をつけたら、軽くなると思っていたわけではありません。でも、名前がないまま離れるよりは、ずっといいと思いました」
私はゆっくり顔を上げた。
拓也さんは静かな目でこちらを見ている。
「時間は増やせません」
「うん」
「でも、使い方は選べます」
彼はコートのポケットから手帳を取り出した。
ページを開く。十二月三十一日。そこに、不格好なくらい大きな丸が赤いペンで書かれていた。
「この日、空けています」
「……」
「仕事でも、準備でもなく、僕たちの時間にしたいです」
「僕たちの」
「はい。三月の話をすると、未来が全部減っていく気がするので。減る前に、ちゃんと置いておきたい」
置いておきたい。
その言い方が、この人らしかった。
大きな約束や派手な言葉じゃなくて、失くさないように、時間そのものを手元に置こうとするみたいで。
「……ずるい」
「何がですか」
「そういうこと、静かな顔で言うところ」
「困らせていますか」
「困ってる。すごく」
でも、その困り方は嫌じゃなかった。
むしろ救われていた。
私は資料の端を指で押さえたまま、小さく笑った。
「じゃあ、大晦日は私も空けます」
「……よかった」
「でも、未来って言ったからには、ちゃんと覚悟してくださいね」
「はい」
「その時間、あとから思い出して苦しくなるくらい、ちゃんと大事にするから」
「……それでも、いいです」
「ほんとに?」
「はい。そういう時間が必要です」
窓の外では、青山の冬の光が静かに傾いていた。
クリスマスほど派手じゃない。
でもその分だけ、今日の会話は現実だった。
恋人になった私たちの、最初の年末。
その事実は甘かった。
同時に、胸が少し痛くなるくらい重かった。
でもたぶん、重いからこそ、本物なのだと思う。
胸元のネックレスにそっと触れる。
ひやりとした先に、すぐ自分の体温が移る。
これから先、何度も揺れるんだろう。
寂しさも、不安も、きっと消えない。
それでも。
名前がついたこと。
重さを二人で引き受けると決めたこと。
その二つだけは、今日の私たちの確かな前進だった。
テーブルの下で重なった指先を、私も少しだけ握り返した。
その小さな力だけで、今は十分だと思えた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
クリスマスの特別な空気の中ではなく、資料とコーヒーが並ぶいつものカフェで、拓也は改めて問いかけました。
「恋人、と呼んでいいですか」
それは気分や雰囲気ではなく、二人の関係にきちんと名前を与えるための言葉でした。
恋人になったからといって、シンガポールへの距離が縮まるわけではありません。
むしろ名前がついたことで、離れることの重さは、以前よりもはっきりと感じられるようになります。
それでも、名前のないまま離れるより、重さを二人で引き受けたい。
残された時間を増やすことはできなくても、どう使うかは選べる。
そう考えた二人は、大晦日を自分たちのための時間として残すことを決めました。
次話「丸印の日」では、年末年始の予定を確認する二人が、会えない時間の多さに直面します。そして拓也は、どうしても優菜に会いたい一日に、何度も重ねて大きな丸印をつけます。




