第31章:丸印の日
恋人になったばかりなのに、年末年始は思うように会えません。
減らせない予定も、避けられない家族の時間もある。
だから拓也は、会えない日を曖昧にせず、二人が必ず会う一日に、不格好なくらい大きな丸をつけます。
今回は、約束を形にすることで寂しさを越えようとする二人のお話です。
「恋人」という言葉は、まだ少しだけ新しかった。
甘いくせに、胸の奥ではちゃんと重い。その重さごと抱えて、私たちは年末に向かっていた。
十二月の終わり。青山のカフェ。
仕事帰りの人たちがガラス越しに流れていく夕方の席で、私は向かいのテーブルを見て、思わず立ち止まった。
卓上カレンダー。
分厚い手帳。
付箋。
ボールペン。
準備が、妙にいい。
(……え、何これ。年末の恋人同士の相談っていうより、小さな作戦会議なんだけど)
「優菜さん、お疲れさまです」
「うん、お疲れさま。……何その机」
「少し、見ておきたくて」
「見ておく?」
「はい。年末年始、会えない時間が多そうなので」
拓也さんはそう言って、少しだけ視線を落とした。
その言い方が思ったより静かで、私は椅子を引く手を止めた。
「……会えない時間」
「ええ。先に分かっていた方が、安心できるかなと」
(……ああ、そっちか)
私は向かいに座った。
てっきり、また拓也さんの細かい管理癖が始まったのかと思った。でも違った。たぶんこの人は、会えない時間を減らせないなら、せめて見える形にしておきたいだけなのだ。
「じゃあ、二十九日は家の手伝い。三十日は買い出し。三十一日は夕方までは自由、かな」
「夕方までは」
「うん。夜は家族といると思う」
「わかりました」
拓也さんは手帳に書き込みながら、ときどき確認するように頷いた。
いつも通り真面目だ。でも今日は、その真面目さの奥に少しだけ落ち着かないものが透けて見える。
「拓也さんは?」
「二十九日までは仕事です。三十日は家のことを少し。三十一日は空けています」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
その返事が、少し可笑しかった。
まるで私が疑うのを前提に準備していたみたいで。
飲み物が届く。
カフェラテの泡をスプーンで崩しながら、私はカレンダーの空白を見ていた。
年末年始って、もっと浮かれた予定で埋まるものかと思っていた。
でも実際は、家族のことや仕事のことがちゃんとあって、思っていたより簡単には会えない。
(……恋人になったばっかりなのに、全然会えなくない?)
その気持ちが顔に出たのかもしれない。
拓也さんが、ペンを持ったまま小さく息をついた。
「……少ないですね」
「うん」
「すみません」
「え、なんで謝るの」
「もっと会いたいと思っているのは、僕の方も同じなので」
そう言われると、ずるい。
こっちが先に言おうとしていたことを、静かな声で先回りされると、怒る場所がなくなってしまう。
「別に、責めてないよ」
「はい」
「ただ、思ってたより現実が固いなって」
「ええ」
「年末年始って、もっとこう……恋人っぽい夢の時間かと思ってた」
「僕も少し、そう思っていました」
「少しなんだ」
「かなり、です」
真顔で言うから、私は吹き出した。
この人の“かなり”は、たぶん私の“めちゃくちゃ”と同じくらいだ。
笑いながら、一月のカレンダーに目を移す。
仕事始めまでの短い隙間。その中に、一つだけ、二人とも時間が空きそうな日があった。
一月四日。
拓也さんはそこを見つけると、ペンを持ち直した。
そしてその数字の上に、ぐり、と丸をつける。
一回。
二回。
三回。
不格好なくらい、何度も重ねて。
「……そんなに丸つけたら、そこだけ小学生の夏休みみたいだよ」
「目立つ方がいいので」
「何の日?」
「寒川神社」
「初詣?」
「はい」
拓也さんは、ぐりぐりの丸を見たまま言った。
「ここは、会いたいです」
「……」
「何があっても」
その言い方が、思っていたよりずっとまっすぐで、私は少し黙った。
管理とか確認とかじゃない。
ただ、会いたいから丸をつけたのだと分かってしまった。
「……そんなに?」
「そんなに、です」
「なんで」
「年を越して、そのまましばらく会えないのが嫌なので」
「……」
「消したくないです。ちゃんと、会う日を」
(……だめだ。そういうの、反則)
几帳面な字を書く人の、不格好な丸。
その雑さだけで、気持ちが全部見える。
「じゃあ、そこは絶対ね」
「はい」
「私、親戚対応でボロボロかもしれないけど」
「それでも来てください」
「命令?」
「……お願いです」
「……うん。行く」
その約束をした瞬間、一月が少しだけ近くなった。
ただ流れていくカレンダーじゃなくて、ちゃんと会いに行く日になる。
拓也さんは少し迷ってから、手帳を閉じずに言った。
「あと」
「うん」
「お正月、疲れたら無理に長い連絡はいりません」
「……うん」
「一言でも大丈夫です」
「一言?」
「たとえば、『無理』とか」
「二文字」
「はい」
「それ送ったら?」
「すぐ反応します」
「怖いんだけど」
「怖くありません」
「いや、ちょっと怖い。スタンバイしすぎてて」
「……心配なんです」
そこで初めて、拓也さんが少しだけ困ったみたいに笑った。
その顔を見て、私はようやく息をつく。
ああ、この人もちゃんと不安なんだ。
ただそれを、大げさに言わず、手帳と丸印と二文字の想定で表しているだけなんだ。
「……じゃあ私も言う」
「はい」
「拓也さんも、無理な時は無理って言って」
「僕は」
「言わなそうだから言ってるの」
「……努力します」
「そこは即答して」
「……はい」
また二人で笑った。
たぶん、こういう笑い方ができるなら大丈夫だと思った。
会えない時間があっても、寂しい日があっても、全部が途切れるわけじゃない。
カレンダーを閉じる。
大きな約束をしたわけじゃない。
永遠を誓ったわけでもない。
ただ、会えない時間をどう越えるかを、二人で少しだけ具体的にしただけだ。
でも、それが思っていたよりずっと恋人らしかった。
「……拓也さん」
「はい」
「今の、案外好きかも」
「何がですか」
「こういうの。予定を見ながら、ちゃんと会う日を決めるの」
「本当ですか」
「うん。適当に大丈夫って言われるより、ずっといいもん」
拓也さんは少し驚いたみたいに目を上げて、それから小さく頷いた。
「……よかったです」
「でも、次からは“見ておく”とかで済ませて。あんまり会議っぽくしないで」
「気をつけます」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「……かなり、気をつけます」
「それならよし」
店を出る頃には、外の空気はもうすっかり夜だった。
改札へ向かう途中、どちらからともなく一度だけ立ち止まる。
「一月四日」
私が言う。
「はい」
「忘れないでね」
「忘れません」
「ぐりぐりの丸、ちゃんと効いてる?」
「かなり」
私は笑って、手袋越しの彼の手に指先だけ触れた。
次に会うのは、あの不格好な丸印の日。
スマホの予定表より、手帳に滲んだあの丸の方が、ずっと「会える」と信じられた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
一月四日。
拓也が何度も重ねて丸をつけたその日は、単なる予定ではありませんでした。
「ここは、会いたいです」
「何があっても」
几帳面な彼が書いた不格好な丸だからこそ、そこには言葉以上の気持ちが表れています。
また二人は、会えない時間を無理に完璧に過ごそうとせず、つらい時には「無理」の一言だけでも送ると決めました。
永遠を誓うのではなく、次に会える日を決めること。
大丈夫だと言い聞かせるのではなく、不安にならないための方法を一緒に考えること。
そんな現実的で小さな約束こそ、今の二人にとって何より恋人らしいものなのだと思います。
次話「正月の生存報告」では、それぞれの実家で家族から結婚について問われながら、優菜と拓也が短い言葉で互いの無事を確かめます。そして丸印の日が近づくほど、会いたい気持ちは抑えられなくなっていきます。




