第32章:正月の生存報告
一月一日。
優菜も拓也も、それぞれの実家で結婚や将来について問われながら、相手のことを思っていました。
会えない時に、無理をして長い言葉を送らなくてもいい。
今回は、短い「生存報告」だけでつながりながら、会いたい気持ちを募らせていく二人のお話です。
一月一日。
世間が「あけましておめでとう」という平和な挨拶を交わしている頃、私の実家では「いつ結婚するの」会議が静かに、しかし着実に開幕していた。
こたつ。みかん。親戚の笑顔。
見た目だけなら完璧に平和だ。
でも、その内側では私の精神がじわじわ削られていく。
「優菜ちゃん、三月から海外なんでしょ? その前に、いい人とかいないの?」
「仕事も大事だけど、女の子の幸せもあるじゃない。ほら、こういうご縁って勢いよ」
「海外行っちゃったら、なおさら婚期が遠のくわよぉ」
悪意はない。
ないのは分かってる。
分かってるけど、だからこそ逃げ場がない。
私は曖昧に笑って、お茶を飲んで、みかんの皮をむくふりをした。
それでも会話の矢は、器用に私の急所ばかり狙ってくる。
ポケットの中でスマホが短く震えた。
トイレに立つふりをして廊下に出て、そっと画面を見る。由紀からだった。
『生きてる?』
その四文字に、危うく泣きそうになる。
すぐ次のメッセージが届く。
『親戚対応用の定型文、送っとく』
『Q. いい人いないの?
A. 現在、三月案件対応中につき新規受付停止中です』
『Q. 結婚はいつ?
A. 関係各所との調整後、適切なタイミングでリリース予定です』
私は廊下で口を押さえてうずくまった。
(……だめ。笑う)
馬鹿馬鹿しいのに、ちょっと救われる。
深呼吸して、私は画面を閉じた。
元日くらい、拓也さんに連絡したかった。
でも、三十一日のカフェで決めた。家族対応中は無理をしない。返せない時は返さない。会えない時間に勝手に傷つかないように、先にルールを作っておこうと。
あの人はたぶん、今ごろ静かな実家でちゃんとしてるんだろう。
そして、私が今どんな地獄にいるかも、だいたい想像してるんだろう。
*
一方その頃、拓也の実家もまた、別の静けさで張り詰めていた。
茶の間には、正月らしい料理が並んでいる。
けれど会話の温度は、決して穏やかではなかった。
「拓也」
父親の低い声が落ちる。
「お前は、いつまで一人でいるつもりだ」
拓也は箸を置いた。
動揺は見せなかったが、指先にはごく薄く力が入る。
「一人ではありません」
「……何だと」
「将来を考えている人がいます」
その言葉に、母が小さく息を呑んだ。
父親は眉をひそめる。
「三月から遠くへ行く人です」
「それでいいのか」
「それでも、です」
それ以上、拓也は多くを語らなかった。
説得もしない。飾り立ても、言い訳もしない。
ただ、その一言だけをテーブルの上に置いた。
茶碗の湯気が、ゆっくり冷えていく。
父は何か言いたげだったが、すぐには続けなかった。
拓也は膝の脇に置いたスマホを一度だけ見た。
もちろん通知はない。今日はそういう日だと、分かっているからだ。
それでも思う。
今ごろ優菜は、笑っているだろうか。
疲れていないだろうか。
逃げ場所くらい確保できているだろうか、と。
連絡したい衝動を、拓也は一度だけ深く息を吐いて飲み込んだ。
ルールは、自分で決めた。
だから守る。
けれど守りながら、会いたい気持ちまで消せるわけではなかった。
*
結局、私が親戚の集中砲火を抜けて自室へ逃げ込めたのは、夜の十時を過ぎた頃だった。
ふとんに倒れ込んだ瞬間、体の中の何かが全部溶けた気がした。
(……無理。今日の私はもう、液体)
天井の木目をぼんやり見ていると、手元の画面が淡く光った。
差出人は、拓也さん。
『一月一日二十二時十五分。そろそろお疲れの頃かと思いました』
私は目を閉じた。
その正確さが、可笑しくて、やさしくて、だめだった。
すぐに二通目が届く。
『今日は返信不要です。無理に返さなくて大丈夫ですから』
『お疲れさま。早く休んでください』
短い。
でも、その短さの中に、あの人の気配がちゃんとある。
会えない。
触れられない。
なのに、この人は言葉の置き方だけで、私の肩の力を抜いてくる。
(……ずるいな)
私は少しだけ迷ってから、返事を打った。
『生存報告です。なんとか耐えました。気遣い、感謝します』
色気も何もない文章だった。
でも今の私には、それが精一杯だった。
既読はすぐについた。
返信は来ない。
それも、決めた通りだった。
だから安心できた。
返ってこないことに、不安にならなくて済んだ。
*
二日、三日と、年始の時間は思っていたよりゆっくり流れて、でも会えないまま過ぎていった。
朝には短い挨拶。
夜には生存確認みたいなやり取り。
絵文字も少ない。長文もない。甘ったるい言葉なんて一つもない。
けれどその一定のリズムが、今の私には何よりも心強かった。
朝起きる。
家族の空気に揉まれる。
親戚の第二波に耐える。
疲れて部屋へ戻る。
そして、画面の向こうに、ちゃんと彼がいる。
それだけで持ちこたえられる夜が、本当にあるのだと知った。
でも同時に、別のことも知る。
会えないままでも、会話は続く。
続くけれど、だから平気かと言われたら、それは違う。
夜、ベランダに出る。
冬の星座が、乾いた空に細かく刺さっている。
私は手袋の中でスマホを握りしめた。
(……やばい)
ルールがあるから迷わない。
リズムがあるから安心できる。
それは本当だ。
でも、その安心が完璧になるほど、余計に分かってしまう。
本物の彼に、触れられない。
声だけじゃ足りない日がある。
画面の文字だけじゃ埋まらない場所が、ちゃんとできてしまったことを。
(……だめだ。うまく回ってるのに、会いたい)
会えない時間を越えるために決めたルールが、逆に、会いたさの輪郭をはっきりさせていく。
それが少し苦しくて、でも嫌じゃなかった。
嫌じゃないから、余計に厄介だった。
*
三日の夜。
時計の針が零時に近づく頃、最後のメッセージが届いた。
『一月三日二十三時五十九分。これにて正月の特殊運用期間を終了します』
私は思わず吹き出した。
こんな時でも、この人はやっぱりこの人だ。
でも、次の一行で、笑いはすぐ胸の奥へ沈んでいった。
『あと十一時間で、一月四日です』
『寒川神社の鳥居の前で、再会しましょう』
そして、最後に。
『……優菜さん。早く、君を回収したいです』
私は両手で顔を覆った。
冷たいはずの指先が、じわっと熱くなる。
「……回収って」
物みたいな言い方。
でも、その不器用な言葉が、今は何よりも愛しかった。
手帳にぐりぐりと書かれた、あの不格好な丸印。
「消したくない」と言った声。
全部がつながって、一気に胸まで届いてくる。
(……会いたい)
こんなに会いたいと思うのに、たった数日会えなかっただけだ。
三月からは、これが日常になる。
そう思うと怖い。
怖いけれど、同時に分かる。
この怖さごと抱えたまま、会いに行くしかないんだと。
私は机の上に開きっぱなしだった一月のカレンダーを引き寄せた。
四日。
あの丸印の日。
指先でその数字をなぞる。
ただの予定じゃない。
会えない時間を越えた先に置かれた、小さな約束だった。
再会まで、あと少し。
私はそのページを閉じずに、灯りを消した。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
親戚から結婚について尋ねられる優菜と、父親に将来を問われる拓也。
離れた場所にいながら、二人はそれぞれの家族の前で、相手との未来を意識していました。
拓也が父親へ告げた、
「将来を考えている人がいます」
「それでも、です」
という言葉。
多くを説明しなくても、優菜との関係を軽いものだと思っていないことが伝わります。
そして二人が交わしたのは、甘い長文ではなく、短い生存報告でした。
返事を求めない言葉。
決めたルールを守る沈黙。
毎日変わらず届く短い挨拶。
それらは不安を減らしてくれましたが、同時に、文字だけでは埋められない寂しさも教えてくれます。
「早く、君を回収したいです」
拓也らしい不器用な一言によって、一月四日の丸印は、ただの予定ではなく、会えない時間を越えた先の約束になりました。
次話「初詣の日」では、三日ぶりに再会した二人が寒川神社を訪れます。文字ではなく声を聞き、画面ではなく手に触れた瞬間、離れていた時間の長さを改めて知ることになります。




